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遠い山なみの光

著者 カズオ・イシグロ
訳 小野寺 健
出版 早川書房 2001年9月15日発行 2017年11月10日 15刷

カズオ・イシグロの長編第一作目の本書を読み終えました。処女作にして既に以下の2点が確立されていたことに驚きました。

・信用できない語り手スタイル
・人間の「記憶」の曖昧さをテクニカルに取り入れた手法によるリアリズム

よくリアリズムの初期3作品と言われる作品の一つです。

リアリズムの初期3作品
遠い山なみの光
浮世の画家
日の名残り

あらすじ

舞台は1980年前後のイギリスの田舎町の現在と、そこで主人公、悦子が回想する1951年前後の日本の長崎県。
主人公悦子の回想が始まる。長女景子を自殺で亡くした主人公悦子の元に次女のニキがやってくる。ニキの訪問によって、悦子は長女を妊娠・出産した頃の戦後すぐの日本の長崎での最初の夫、夫の父、出会った不思議な母子佐知子と万里子らとの交流の記憶を辿る。

登場人物

わたし=悦子 主人公 
景子 悦子の娘 二郎との間に生まれた長女
ニキ 悦子の娘 2番目の夫との間に生まれた次女 ロンドン暮らしている
二郎 悦子の最初の夫
緒方 二郎の実父二郎と会う前から被爆後世話をしてもらっており知り合い
佐知子 悦子の友人
万里子 佐知子の娘
フランク 佐知子のアメリカ人彼氏
和夫 藤原の息子
藤原 うどん屋 悦子の母の親友
夫 悦子の二番目の夫 イギリス人
小さな女の子 長崎での連続殺人事件の被害者

テーマ

初期の長編第1作目ですが、やはり「戦争」がモチーフの一つになっています。

僕が本書を読みながら感じたテーマ
被爆地、長崎の戦後すぐの人々の生活
時代の変化(戦前戦後)
心の傷を抱えながら生きる
戦後をたくましく生き抜く女性の姿
女性の自立
敗戦による大きな喪失感と傷の再生

被爆地、長崎の戦後すぐの人々の生活

原爆が投下された被爆地としての長崎そのものについては、さほど触れておらず、その辺りは、5歳で長崎からイギリスへ渡った為どこかしら傍観者的にならざるを得ないのかなと思いました。

時代の変化(戦前戦後)

緒方とその息子世代で戦前戦後の教育の在り方が180度違います。
戦前、中学校の教師をしていた緒方は、その時代の変化をそのまま受け入れるということがなかなかできないでいます。

「中略。子供たちは自分の国の歴史を何も知らずに卒業していくんだよ」
「たしかに困ったことかも知れませんね。しかし、ぼくらが学校にいたころにも妙なことはありましたよ。たとえば、日本は神さまが造った国だなんて教えられて。日本は神の国で、最高の民族だなんてね。教科書は隅から隅まで暗記させられたし。失くなってもいいものだって、あるんじゃないかなあ」
「しかし二郎、物事はそう単純じゃないぞ。おまえにはそういうものの持っていた意味が、やはりわかっていない。物事はとてもおまえが考えるほど単純じゃないよ。わたしたちは大事なものが次の世代に引きつがれていくように、子供たちが自分の国にたいしても、同胞にたいしても、正しい姿勢を身につけるように、身を捧げてきたんだ。昔の日本には精神があった。それが国民を団結させていたんだ。今の子供たちは、どうなると思う。何が大切なのかということを学校で教わらないーまあ、人生に何でも勝手に要求しろということは、教わるんだろうがね。家へ帰れば、母親が父親の支持する政党に投票しないというんで、夫婦喧嘩をしている。何たるざまだ」
中略
「われわれは力一杯努力したんだ。遠藤さんにしてもわたしにしても、この国のいいものを育てるように力一杯努力したんだ。そのいいものがみんな破壊されてしまった」
遠い山なみの光 カズオ・イシグロ ハヤカワepi文庫 p92-93

戦前の軍国主義、全体主義的な思想下での教育に対して、僕は反対です。
敗戦後の日本は、GHQ下で民主主義、個人の自由といったものが急速に浸透していきます。そして高度経済成長を迎え、効率を最優先とする効率主義へと走り抜けてきました。しかし、その過程の中で日本の古き良きいくつもの伝統や文化などがおざなりになっていったと思います。伝統、文化や芸術は日本人の精神や倫理(全体主義ではない部分)の根源的な部分でもあるのではないでしょうか?一方で、歴史的事実を客観的に教えるといった教育も退けられ続けている現在、教育の在り方も考えさせられたシーンでした。

心の傷を抱えながら生きる

主人公の悦子の回想という形で成り立つ物語の中、悦子の記憶の曖昧さが何度か強調されています。また、その回想中、悦子はたった数週間しか交流のなかったはずの母子を強く思い出そうとしています。

アメリカ人のボーイフレンドをもつ佐知子は、自身の恋を人生の中心に置き、娘の万里子を二の次にしていたように悦子の目には映っていたのでしょう。もっと言うなれば、エゴを優先し、そのエゴに多感な時期の子どもを巻き込んで翻弄させ、トラウマを植え付けていたようにも見えたはずです。

はたして、これは本当に佐知子と万里子の母子関係のことなのでしょうか?

僕は、何度か悦子が悦子自身と景子の関係を佐知子と万里子の関係に見ていたように思えてなりません。

この事は色々なところで指摘されている原著と翻訳の違いでも表れています。

"if you don't like it over there, we can always come back."
翻訳(万里子へ)行ってみて嫌だったら、帰ってくればいいでしょ

原著だと、もし嫌ならいつでも「私達」帰ってこれるから
私達=悦子と景子
回想をしている中で、悦子は佐知子と万里子の関係に自身と景子を映し出していたのではないでしょうか?

また、6章と10章で、悦子は似たような、とある事を回想しています。

6章
「それ、なあに?」万里子が訊いた。
「何でもないわよ。歩いてたら足にからまっただけ」
「でも何なの」
「何でもないは。ただの縄よ。どうしてこんなところまで来たの」
「おばさん、子猫飼ってくれる?」
遠い山なみの光 カズオ・イシグロ p118
10章
女の子はまじまじとわたしを見ていたと思うと、「なぜ、そんなものを持っているの」と訊いた。
「これ?サンダルに引っかかっただけよ」
「なぜ、持っているの?」
「言ったでしょ。足にからまっただけ。万里子さん、どうしたの」わたしはちょっと笑った。「どうしてそんな顔でわたしを見るの。わたしが怖いことなんかないでしょ
万里子はわたしに目を据えたまま、そろそろ立ち上がった
「どうしたの?」わたしはくりかえした。
中略
子どもはまた走りだした。
遠い山なみの光 カズオ・イシグロ p245-246

この2つの章で繰り返される似たようなやり取りをよく読んでみると、悦子は万里子の中に景子を見ていたような感覚を僕は受けました。
そして、10章の回想の部分で、怖がる表情の万里子を思い出す悦子は、景子からそうした表情で見られていたのかなと想像しました。
幼い頃、景子は悦子から虐待を受けていたのかなとさえ思えてきました。

また、悦子は悪夢もよくみるようになっています。

彼女の回想中の曖昧な記憶が自分自身と景子の関係を他者の母娘の関係に映してしまうような描写から、自殺で景子を亡くした悦子の喪失感と心の傷がいかに大きなものなのか、痛々しいほどに伝わります。

悦子、景子、佐知子、万里子、藤原さん。
彼女たちはそれぞれに心に様々なトラウマや傷を抱えながら生きていたのではないでしょうか。

戦後をたくましく生き抜く女性の姿

原爆により家族を亡くしたり、被爆したり、戦後直後の女性の苦労と共に、佐知子の奔放で、たくましい生き方は、戦後の日本にも女性の地位の尊厳や自立を象徴するような生き生きとしたものにも見えました。

女性の自立

佐知子の、一見、自由奔放でエゴが強調された生き方は、裏を返せば、非常にたくましく、したたかな強さ、戦後の敗戦国日本を女ひとりで生き抜こうとしているかのようにも見えます。

そして、主人公悦子の次女、ニキもそうです。1980年前後を生きるニキは、悦子に対し、こう言います。

「そうね、なぜ結婚しなくちゃならないの。バカげてるわよ、お母さま」
中略
「女はもっと目をさまさなきゃだめよ。みんな、人生はただ結婚してうじゃうじゃ子どもを産むものだと思ってるけど」


敗戦による大きな喪失感と傷の再生

物語の女性たちの大きな喪失感や心の傷は、敗戦直後の我々日本人たちの多くが抱えながらも、復興そして再生へと向かった当時の姿のようにも思えます。そして、それらはお互いに長い時間をかけて癒したのではないでしょうか。

おわりに

ニキはこの物語のなかで一つの希望のように見えます。
自殺で長女を亡くし、途方もない喪失感と心の傷を抱えた悦子。
しかし、次女であるニキの存在そのものが、今後、悦子を優しくケアしていくのではないかと最後のページから想像しました。

時代の移り変わりについていけない戦前戦後の人々の心情。

苦労の中、女としてのエゴに翻弄される子ども。

母と娘との微妙な関係からお互いに何かしらのトラウマのような心の傷をそれぞれに抱えながら生きていたこと。

戦後復興の中での女性の苦労とは対比的な自立の在り方が肯定的な現代女性のささやかな日常をさらっと見せたり。

こうした壮大な視点と普遍的なテーマで現代を風刺する著者の鋭い洞察力。

第1作でこれだけコンパクトに詰め込めるのも素晴らしいですが、人間の記憶の曖昧さを突いて、それを描く事でより一層のリアルさを表現するテクニック含めて、稀有な才能の作家であることを再認識させられました。

人のエゴと感情の揺れによって変化していく記憶。
5歳で長崎を離れたカズオイシグロの今となっては曖昧な記憶と重なるかのような長女が7歳の時までの主人公悦子の曖昧な記憶。
曖昧になっているからこそリアリティを持って物語に読み手が引き込まれていく。 

記憶というのは、たしかに当てにならないものだ。思い出すときの事情次第で、ひどく彩りがかわってしまうことはめずらしくなくて、わたしが語ってきた思い出の中にも、そういうところがあるにちがいない。
遠い山なみの光 カズオ・イシグロ (p221) 

長編処女作からカズオイシグロは信用できない語り手でした。※ただ、この作品の翻訳は著者のスタイルを時々スルーしてしまっているように思えました。

そして、イギリスと日本という二つの全く異なる国を祖国に持ち、淡いベールに包まれたような記憶の中にぼんやりと故郷、長崎を想う著者だからこそ描けた物語だったのでしょう。


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