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『The Double』ジョゼ・サラマーゴ著

ポルトガルのノーベル文学賞作家ジョゼ・サラマーゴさんの作品が僕は好きだ。彼の作品は鉤カッコと改行のない地の文体が非常にユニークでありながら、独特のリズムがあり癖になる。また社会風刺と普遍性に富んでおり、読んでいて多くのことを考えさせられる。

サラマーゴさんは『The Double』(邦題『複製された男』)で人間の二面性、多面性そして世界の不誠実さを巧みに描いている。以前映画版を観た。映画版もとてもよかった。しかしながら、やはり原作はそれを上回るものがあった。

“Such is our need to shower blame on some distant entity when it is we who lack the courage to face up to what is there before us.”
意訳
目の前にあるものを直視する勇気がない私たちは、どこか遠くの存在に責任をなすりつけたいのでしょう。

『The Double』 José Saramago

いまの僕にはタイムリーな内容の本だった。





知識層という言葉を使っていいのか戸惑う。
地頭が良い、かつ、知的にも芸術的にも素養あるひとというのは魅力的に思える。
そうしたことと知識層というのは少し違うが、ある一定以上の上っ面ではない教養の深さを持つ年老いたひとたちを思い浮かべてみると、彼らは所謂知識層に属するかもしれない。

その上にバイタリティがあればあるほど惹かれる。
アニー・エルノーさんは知識層に属する自身と出自とのギャップにコンプレックスを抱き続けた。しかしエルノーが魅力的に映るのは前述の両者を持つからかもしれない。

言葉選びのセンスやそれとなく諭す力というのが謙虚にみえて、実は懐の深さと余裕から、魅力を引き立てるのだろう。

真に強いものは優しい

というのと繋がる。

本当の意味での知識層はあざとくないし誠実だ。

三島由紀夫さんは『美徳のよろめき』で、官能な女に愛されたなら幸せというけれど、官能なだけでは惹かれない。

・知と芸術的素養
・適当な言葉でその場を取り繕ったりしない思慮深さ
・誠実と謙虚
・あらゆるものへの慈しみ深さ

エレガンスとは、その総称なのだろう。

───

ところで、ここ最近「安直な誠意表明の危うさ」について考えさせられることが多い。
外交であれ、身近なことであれ、あまりに誠意がない言動。
特に、政治「屋」。
政治家ではなく、いまは政治屋しかいない。
金ありき前提の勝者による勝者のためのフレームワークづくりしか彼ら政治屋は興味を抱いていないように見える。

拙著『Book Cover』でも僅かながら奨学金問題や子育てと仕事との両立で壊れてしまった母親について触れた。企業戦士であった母親は社会と家族から追放されたのか、離脱したのかという裏テーマもある。

また、能力主義時代とも言える1990年代から2000年初頭、子育てと仕事の両立は極めて大変であり、特に総合職の場合、認可保育園に入りやすかったとしても、国や企業の支援は不十分であったと言わざるを得ない。

僕の父母世代である彼らは第二次ベビーブームの世代であり、20代、30代の頃、きちんと国の支援体制が本気で取り組まれていたら、今の少子化は、少し異なるカーブを描いていたのではないだろうか?

何かに対して誠実であろうとすると時間を割く必要があり、謙虚でなければならない。

聞く耳を持つ、考える、意見を述べる、折り合いをつける

これらは労力を使う。
それよりも、労力なく、適当に、八方美人的に、いい顔しておいた方が楽なのだ。

〇〇っていいよ
〇〇するのを検討してください
〇〇で困ってます

とか、そうしたことに対して

すごく好きです!
やります!
こんど検討してみます!
あとで対応します!

なんてその場しのぎで安易に言うのは簡単だけど
真剣に考えていないことの方が多い。

僕は普段、偽善、建前での返答を前提として頼んだり、勧めたり、提案したりすることがほとんどになっている。
期待というのは傲慢さのひとつでもあり、また、偽善や建前を使うのも傲慢さの現れでもあるだろう。

しかしながら、それらに疲弊していてはきりがない。
*「期待をしないことが正解」と言いたいのではない。

いまの政治にしろ、行政にしろそうであり、そこにご意見番みたいな知識層がぶら下がったとしてもお抱えでしかなく、本物の知識人ではない気がしてならない。

これは何も政治屋だけでなく、あらゆる分野でそうなってしまっている。

期待しない───期待してはいけないのにどうしてだか好きな作家にはこうであってほしいという勝手な願望を時々抱く。

僕はハルキストである。2023年4月13日に発売される村上春樹さんの6年ぶりの新刊『街とその不確かな壁』をとても楽しみにしている。サラマーゴの持つリズム感同様、彼の文体も癖になる独特のリズムがあるのは周知のとおりであろう。
昨日、著者のサイン本が10万で売られることを知った。

物を書く上での誠実さとは、ポリシーとは何なのだろうか。
例えば、とんでもなく贔屓目に想像を膨らませて、その10万には意味があって売り上げをサウスグローバルやどこかに寄付するだとか、慈善のためだったとしても、おかしな話である。
彼がアナーキーなのか主体性なき人物なのかわからないでいた。サイン本をその金額で売ることに承諾したのなら、その姿勢は後者の意味合いを彷彿させた───かなり残念に感じた。
とはいえども、彼はイスラエルを批判しながらも当地のイスラエルの文学賞、エルサレム文学賞を受賞した過去からも、信念などどこ吹く風なのは自明なことかもしれない。断定はしかねるが。

僕は村上春樹さんのこの姿勢にかなり批判的でもあるため、純粋に彼の作品を好きな人たちにとってはこの意見はアンチとしてしか響かないだろう。
村上春樹作品に対してはデタッチメント期とその境にある作品群は今でも大好きである。村上春樹作品に傾倒していた時期だってある。
だからこそ非常に残念に感じた。

それでも、長年のファンとしては、やはり真意が知りたい。
この作品に何故、作家は10万円という破格な価格を設定したのか?

知識人というのはそれこそ立花隆らで最後であり、作家でいうと大江健三郎さんで完全にひとつの時代が終わったのだろうか。

───

#かなりタイプの女性エレガンスが匂い立つひと

ひとというのは、一側面しか見てもらえない。
しかしながら、よく冷静に見ていると、その人物のそれまでの社会的仮面が剥がされていく。

老若男女問わず、エレガンスを兼ね備えているひとは多面的であり魅力的だ。

僕もそうなりたい。


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