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救済の読書について

「人生は勿論泳ぐのに安全でも適切でもないわけですが、彼女たちが蜜のような一瞬をたしかに生きたということを、それは他の誰の人生にも起こらなかったことだということを、そのことの強烈さと、それからも続いていく生活の果てしなさと共に、小説のうしろにひそませることができていたら嬉しいです。」

江國香織「泳ぐのに、安全でも適切でもありません」のあとがきにある一文である。
久しぶりに号泣しながら本を読んだ。
読書に求めるものは当然人それぞれ、あるいは気分によっても違うものだけれど、私は救われたくて読むことが比較的多いのかもしれない。
何も直截的な癒しの言葉とどんぴしゃで出会うことだけが救いではない。数百ページかけてじっくり抱きしめられるような作品に出会ったり、ほんのいくらかのセンテンスで「この人には私の想いが通じる」と電流が走る瞬間があったりする。そうしたときに、ひとりではないんだと度々感じる。これだから読書はやめられない、と。

あとがきに感銘を受けた経験はもう一つある。中村文則「惑いの森」の、たしか文庫版にのみついたそれの最後に綴られた一文だ。

「僕は死ぬまで作家なので、共に生きましょう。」

こんなに高揚しかつ安心した言葉は、そうそうない。
初めて読んだ中村さんの作品は「A」だった。こちらもだいぶ癖のある短編集で、2作目あたりから少しずつ「この人は気になって目が離せない存在だ」と、作家自身への興味が湧き始めた。読み進めながらその直感が確信に変わっていき、その後も何作か手に取る中で「惑いの森」のあとがきに出会った。上手く言えないけれど、中村さんが一生作家でいてくれるなら、私も一生なんとかやっていける気がした。

文章を読むというのは、文字を挟んで書き手と向かい合う行為だ。言葉の並んだ面の向こう側に、机に目を伏せる書き手の顔が見えた気がするとき、潮が満ちるように、心の空虚が幸福に浸されていく。

誰かの魂を撫でるような文章を書いて生きていきたいものである。

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