ハードボイルド書店員日記⑩
「すいません、外国文学に詳しい方いらっしゃいますか?」
黒髪を真ん中で分けた色白の若い男だ。ピカソの「盲人の食事」みたいな体型。眼差しの角度がエゴン・シーレを匂わせる。レジ内の全員が私を見た。私にとっての文学はメロスにとっての政治ですと言った。男は朗らかに笑った。学生ではない。
「短編集を書きたいと思っています。ジャンルは文学とエンタメの中間ぐらい。お手本になりそうな作家を教えていただけたらと」
「日本ではなく外国の作家、ということですね」
「はい」
「棚にご案内します」
新潮文庫。ヘミングウェイ「われらの時代」がない。どんな時代だ。一冊だけ差されている彼の著作に答えがあった。全身全霊を懸けてやっと釣り上げたなけなしのカジキを横暴なサメの力で台無しにされる時代。サリンジャー「ナイン・ストーリーズ」もなかった。こんな店は潰れてしまえばいい。男は「大丈夫、どちらも既読です」と口元を緩めた。よく笑う男だ。笑い男。ただしコケの生えた徳島県の石灰岩みたいな顔で。カポーティ「夜の樹」は積まれていた。「それも読みました。素晴らしいですよね」胸の奥のどこかがサムアップした。
ハヤカワ文庫。ハリイ・ケメルマン「九マイルは遠すぎる」を見つけた。男は表題作を飛ばし読みして「へえ」と息を漏らした。私は横顔を眺めながら藤原伊織「テロリストのパラソル」を思い出した。島村のホットドッグを頬張る浅井の目だった。ある一冊を「きっと気に入りますよ」と手渡した。「日本人は」と首を傾げつつも男は素直に本を開いた。また笑みがこぼれた。「チャンドラーお好きなんですね」「ええ」「ぼくも好きです」
単行本。ルシア・ベルリン「掃除婦のための手引き書」を指差した。男は糸のもつれたマリオネットを模写した。「図書館で少し読みました。ネットのレビューで絶賛されてますよね。どこの書店でも推されてるし」「そういうの苦手ですか?」「苦手じゃないけどなんか負けた気がします。それに」男は慎重に言葉を選んだ。「的外れに褒められるのって真っ当にけなされるよりも無意味だと思うんです」彼の言う通りだ。掲げられていたPOPを外し、エプロンのポケットへ滑り込ませた。書いたのは私だった。男は前髪を払い、「やっぱりもらいます」と一冊手に取った。
「優れた外国小説を読むと、時空も国境も越えて頭の中で旅を楽しめるんです」「わかります」「お金を貯めていつか一度は海外へ」だが男が買った三冊のうち、一冊は日本のものだった。「本当にいいんですか?」「すごく楽しみです」最後も笑顔だった。催花雨という言葉が頭を過ぎる。男は私に丁寧に礼を述べ、店の外のベンチに座り、その一冊を読み始めた。原りょう「天使たちの探偵」を。
やっぱり学生だったのかもしれない。数年後私は彼のデビュー作を徹夜で読み、全身全霊を懸けてPOPを仕上げた。花は咲いた。だが一か月経っても一冊しか売れず、棚卸で返品された。
作家として面白い本や文章を書くことでお返し致します。大切に使わせていただきます。感謝!!!