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『現代思想入門』の読書感想文です+なぜ売れたか問題続き

先日『現代思想入門』はなぜ売れたのかというエントリを投稿したところ、タイトルに反して「なぜ売れたのかわからない」という詐欺的かつ無責任な内容だったにもかかわらず著者の千葉さんにリツイートもいただいたりして思いの外多くの人に読んでいただき驚いた。現代思想の内容に全く触れずに自分のことばかり書いてしまって、なんだか恥ずかしいやら申し訳ないやらな気がして、また同時にたくさんの方に読まれたことはうれしい気持ちもあったりで、今度は現代思想が語ってきたことを知ることが個人にとってどういういいことがありうるのかということを綴ることで『現代思想入門』の感想文になるんじゃないかと思って、書いてみることにする。

前のエントリでも書いたけど僕が学生の頃現代思想に触れたいと思ったのは知的なもの=カッコイイと思っていたからで、さらに知ってたら尊敬されるんじゃないかとかモテるんじゃないかとか、要するにモテたいと思ってバンドやる、というのと動機は全く同じである。強いていえば「こういう角度でモテたい」という自分なりの価値観=下心があったわけで、ただただ恥ずかしいがかといって今もそう変わっちゃいないな。でもすぐに挫折したとはいえ哲学的な言葉を上っ面でも触れたことでちょっと面白がれることもある。たとえば2019年に発売されベストセラーとなった『俺か、俺以外か。 ローランドという生き方』という本がある。ホストでトップに登り詰めたローランド氏が自分の名言を解説するという本だけど、これ、とっても面白く読んだ。

派手な外見とホストというチャラそうな印象の真逆を突いて、向上心や努力、信念みたいな泥臭い価値観が語られ、ただそれはスポ根や少年ジャンプのヒーローの「仲間」みたいな感じではなく群れない、孤高の価値観と過剰な自己愛でコーティングされている。それを自嘲的にエンターテイメントにしている感じもあるけど計算して作ったキャラじゃないことも察することができる。これだけ過剰に自分を意識をしているけど、自分ではない人に囲まれたところで社会的折り合いをつけている。その「差異」でビジネスをしている。水商売という世間的には冷ややかに見られがちな仕事を、堂々と意識を持ってやっている業界の顔として振る舞う自負のカッコよさと、一方で他のホストたちと俺は全然違うんだぜという業界での自分も特別にする構造が突っ込みたくなるが説得力も持たせている。また、親という権力、部活や大学という社会と自分との関わりと折り合いについても書かれていて、同調できない個性側からのひとつの象徴的な価値観と振る舞いが言語化されているところが読んでいて心地よいのだと思う。おまけに『俺か、俺以外か』というタイトル、「われ思う、ゆえにわれあり」と対になるような共存しそうな、解釈したくなるような余白があり、そこも隙がない。どっちだよ。

このように善悪ではない、こうすべきでもすべきでもない、ただ「俺以外」であるところの他人や社会との関係性についてのエッセイともとれるんだけど、まさに現代思想が語ってきたことと重ねて考えるとその面白さを言葉にする時の解像度が増すように思える。現代思想そのものを理解できていなくても、それが取り組んできたこと、なぜこのような考え方が生まれどのように受け入れられていったかを知っているだけでもこの効能はあるし、また『現代思想入門』はその入り口に立たせてくれる本だと思う。

『俺か、俺以外か。』の例はいってみれば外野からの「面白がり方」の話であって、例えば韓国の文化を学べば韓国ドラマをより深く楽しめるとか、昔の名勝負を見ておくと今のプロレスをより楽しめるよ、に近いかもしれない。でも、社会のできごと一般にかぶせられるので、例えば何かの事件の報道があったとして、それを人にはいわないにしても「自分は現代思想のフィルタにかけてこのように理解した」とひとつ例えのストックを作って保存しておくことはなんというか、考えのコク付けにいい習慣ではないかと思う。私などは大体のことを「プロレスでいうところのこれだな」という自己流の理解をしていたものだったがそれをそのまま使うのは世代ギャップ上もなかなか難しくなっている上に、今は「誰でも一定量の知識と共通認識」を持っているテーマもなかなかない。お笑いもそうですよね、みんながわかる「あるある」はどんどん小さくなっていき、探すのはこれから難しくなってくるんじゃないかと思う。そもそも『俺か、俺以外か。』だって本がランキングに急上昇してきて、誰の、なんの本だこれは、でも多分Youtuberとかなんだろうな、みたいなのが出会いだったもんな。はい、脱線しました。

じゃあ自分ごととして現代思想を、どう使うか、使う?このあたりの言葉使いは難しいですね。実用書、例えばダイエット本のような実用的なノウハウではないし、教養を活かすというと近いようにも思うが、知識というよりはフレームワークに近いのかなあ、と思う。

例えば仕事でAとBのどちらにしようか、商売的にはこちらの方が儲かるからAにしようかという判断をする。これは明快に判断できる。でも商売的にはAでもSDGs的にはBだよね。社長はBの方を進めたいっていってたよ。などなど物事はなかなか明快に決めさせてくれない。そもそもAとBじゃなかったんじゃね?みたいなのもある。フレームワークは放っておくとだらだらと湧き出す雑多な意見や考え方を整理する道具として代入し使う公式のようなもの、と定義したらいいのだろうか。ビジネス書に書いてあるのはそんな感じだったような気がする。これが企画案ABどちらにする、ではなく会社としてダイバーシティにどう向き合うか、みたいなお題になると物事は俄然複雑になる。いや、法律ができるのを待とうとか罰則規定がないから大丈夫だとかそういう話じゃなくてだね。じゃあたとえば働き方の多様性を推進しているということでよく話題になる「サイボウズ」みたいな会社制度にみんななっていくのだろうか?そこそこはなっていくのだろうか?

『拝啓 人事部長殿』という本の中で、著者は自身が勤めるサイボウズの人事制度を他社にも広げるべきではというミッションを自ら持ち、対外的に持ちかけてみると「それはサイボウズさんだからできるんですよ」と口をそろえていわれたと書いている。これは単純にうちの親分は頭が固いから、というだけではない背景が存在することに気づき、著者は日本の人事制度の変遷とその理由について振り返りを始める。ダイバーシティという現代思想的領域の中でどう振る舞うかという問いに対する仮説と、検証によって考えを深め進めていくプロセスがまさに自分ごとの実践だと興味深く読みました。読みました?しまったこれも自分にとっては他人事だ。難しいな。

でも壮大な実験を絶え間なく続け変化し続けているサイボウズ社のような例は存在そのものが現代思想の言葉でいうところのリゾームを体現しているように感じる。リゾームというのはもともと地下茎のことで、あらかじめの秩序を持たず臨機応変に変化し進んでいくことを説明したもの、という感じだと思う。新しいネットワーク組織のあり方でいわれるDAO(分散型自立組織)なんて、まさに純正リゾームのように思えます。DAOについては自分の言葉で説明する力がないのでIT系の記事で読んでいただいた方がいいと思うが、そこでは組織と個の関係性が究極的にフラットになる。シャレのようだけどふらっと入ってふらっと出られる。組織の中でも個のまま振る舞うこともできる。

『Web3とDAO 誰もが主役になれる「新しい経済」』のなかで著者は、会社や組織、果ては都市や国家に至るまでDAOまたはDAO的になっていくであろうと述べている(ちょっとうろ覚えですがそのようなSF的示唆があったのは記憶している)。私のようなおじさんが現役のビジネスキャリアでDAO的なもの波を感じることができるか、今のところ予感めいたものはないが、こういうのは一瞬でくるからなあ。すごい馬鹿みたいなことを書くけど、YouTubeを知る前の日までYouTubeは知らなかったけど、知った日にいくつかの動画をサーフィンしたらもう当たり前に生活(検索)に入っていったわけで。そういう意味では今日がDAO前日かもしれない。まあYouTubeとは違うでしょうけど。

唐突だけど、『現代思想入門』のフーコーのところで書かれているが、牢獄や監視など、近代になって確立されたマイノリティ排除の仕組みは一方にとって非常に合理的に、管理できるシステムが作られたとある。今マイノリティーがクローズアップされ多様性のありようが語られるようになり「当たり前」「自然」の定義が塗り替えられようとしている。その一方で先ほどのDAO組織を技術的に担保するところのブロックチェーンもまさにソフトで目に見えないが決して逃れられない新しい監視システムであるといえるのではなかろうか。自分の、または参加している人の一挙手一投足が几帳面にログされている。その思考、行動がDAO的なワールドでの人との信頼につながる。カーストも同調圧力もないであろう世界がIT技術をベースに作られようとしている。あ、もうあるのか。

インターネットの普及で個のあり方が変わった。ただそれはインターネットサービスを使いこなすとか、影響力をもつ表現をするとかそういうことだ。ネット的な演出もできるし、顔だってなんだってフェイクありありだ。一方DAO的世界はもうあちらに信用やらアイデンティティを預けてあるわけなので、逆にそこにおいてはフィジカルな実社会のあれこれは些末なこと、になるのかもしれない。ダイバーシティなんて議題はそこには必要ないだろう。そのような世界に入った時の現実の自分のアイデンティティとかがどう変わるのか、承認欲求の仮想と現実のバランスはどうなるのか、地域は、実コミュニティ は、と論点や、想像できないことがどんどん浮かんでいく。

facebookに加入した当初の恥ずかしい振る舞いとか、で済めばいいけど。いきなりマトリックスのように戦闘シーンに巻き込まれることはないだろうが、ちょっと怖いな。個の座標軸が変わってしまう時、現代思想があの頃予見していた変化の表現や、社会を見る時の角度とかを引っ張り出すと自分の立ち位置を見失わずに振る舞えるのではないかと。より個人がありのままに、フラットに扱われる時の歪みはどこに来るか、など先人のフレームで推測できることもあるかもしれない。

30年前の挫折がなかったら本書にピンときてなかったわけだったから、当時の不甲斐ない自分に感謝している。のんびり生きている間にインターネットが普及し、あの頃ピンときていなかった概念がわかりやすい形で現実になっていたりもする。逆にいえばあの頃うまく取り入れられた人はアーリーアダプターで、今、機が熟して普及期なのかもしれない。だとしたら、本書の10万部突破の謎も解けたのかな、そうなのかな、そうかもな。

利用サービス:audible audiobook.jp

カバー画像:北京の書店


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