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虚構に溺れる ジュリアン・バトラーの真実の生涯 川本直

「ジュリアンは私で、私はジュリアンだった」
作風は優雅にして猥雑、生涯は華麗にしてスキャンダラス。
トルーマン・カポーティ、ゴア・ヴィダル、ノーマン・メイラーと並び称された、アメリカ文学史上に燦然と輝く小説家ジュリアン・バトラー。
その生涯は長きにわたって夥しい謎に包まれていた。
しかし、2017年、覆面作家アンソニー・アンダーソンによる回想録『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』が刊行され、遂にその実像が明らかになる――。

Amazon商品ページより

よく記事にも取り上げているほんタメで知った本。ずいぶん前にあかりんが最近読んだ本で紹介していて、買うのはすぐ買ったのだが、つい積んでしまっていた1冊だ。
読み終わってからこの本は感想を書きたいと思ったのだが、まとまらず、時間を置いてしまった。
とにかくどう言えばいいのか、ほんタメであかりんも言っていたが、なぜ私はジュリアン・バトラーを知らなかったのだろうか、どうして読んでいなかったのだろうかと思うほどに著者・川本直氏はジュリアン・バトラーという架空の作家を緻密に作り上げているのだ。
この本は公私共にパートナーであったジョージ・ジョン(覆面作家、アンソニー・アンダーソンでもある)が20世紀アメリカ文学史に残る作家、ジュリアン・バトラーとの作品の創作と共にした日々を語った自叙伝を川本直氏が翻訳したという形を取って書かれている。文体も翻訳物のテイストがしっかりと出ていて、まさかとは思うが英語で一度書いてから日本語に書き直したのでは?と思ってしまうほど、翻訳物を読んでいる気分になる。
圧巻なのは巻末の参考文献だ。実在する人物も数多く登場する本書、それらの人物にまつわる文献やアメリカ文学、そしてジュリアンとジョージが題材に取った古代ローマやギリシャについての文献など、実在する文献とともに、ジュリアンやジョージに関する文献、そして彼らと関わった川本氏が創作した作家たちに関する文献、架空の文献もしっかりと組み込まれているのだ。
普段本を読む時は途中で気になる箇所が出てきても、最後まで読み通してから改めて調べたりするのだが、虚実が混じり合い虚構の作家を作り上げている本書では、どこまでが実在の人物なのかが見当がつかず、何度か途中で調べることになったほどだ。
正直に言うと、私は海外文学はそれほどは読んでいないし、特にモダニズムの流れを汲むあたりはストーリー性よりも人物たちの意識の流れに重きを置かれることが多く、物語が好きな私にとっては苦手な分野だ。ビートジェネレーションやそれに続く世代の作品にはあまり触れていない。
川本氏が本書を書くきっかけとなったゴア・ヴィダルの作品も読んだことがない。かろうじてカポーティーを何作か読んだ程度だろうか。60年代から70年代のアメリカ文学は守備範囲外だ。そんな私ですら引き込まれてページをめくる手が止まらなかったので、現代アメリカ文学に詳しい方や好きな方ならきっともっと楽しめるだろうと思う。
美しく、享楽的で退廃的なジュリアン。彼とフィリップス・エクセターアカデミーで運命的な出会いをした生真面目なジョン。女装が罪であった時代に、倒錯的なファッションを好みゲイを隠そうともしないジュリアンと、陰気で殻に閉じこもっているジョージのキャラクターの対比の妙に、最初から引き込まれていく。
卒業後、2人はしばらく離れることになる。ジョンはコロンビア大に進み、ジュリアンは軍に海軍予備役となり、親のコネで後方支援に配属、そしてその間に小説を書き、再会したジョージがその小説に手を入れて出版に手を貸したことから2人の共作が始まる。ジョージ自身も小説を書こうとしていたが、彼の生真面目な性格が災いし、型にはまった作品しか書けずにいた。ジュリアンの小説は、題材や展開、そして会話には目を見張るものがあるが、構成や文体そのものは稚拙で、ジョージはその原稿を改稿し、結末も変えて書き直すのだ。一度は怒るジュリアンだが、結局はジョージの原稿を気に入り、ジュリアンの名で出版すると宣言し、2人で同性愛にまだ寛容なヨーロッパ、パリに移り住み、処女作『二つの愛』をオリンピア・プレスから刊行する。耽美と退廃をまとった同性愛作家、ジュリアン・バトラーの誕生だった。
それ以降、勤勉なジョージがイニシアチブを取りながら、2人で作品を書き、発表していく。批判されながらも、ある意味時代の牽引者として同時代の作家たちと肩を並べ評価を得ていくジュリアン・バトラー。その華麗な交友もまた物語の重要な要素だ。アメリカ社会の変化、そして時代そのものの変化、そうしたものの中で、2人の作品は世に出ていく。
そしてこの作品で私が最も楽しんだのは、自分が知らないということなのだ。かろうじてカポーティを読んだ程度で、時代背景については多少なりとも知識はあっても、20世紀アメリカ文学史に無知であるからこそ、ここに出てくる作家たちの作品の評価やその背景、そして作家たちのパーソナリティ、そうしたものを楽しめたのかもしれないと思う。もしもこの中に自分が思い入れのある作家がいたり、またはアメリカ文学史に造詣があったなら、異議を申し立てたくなるところもあったかもしれない。それほど知識がないからこそ、ここに構築されたリアリティにさしたる疑問を持つこともなく楽しめたという面はあるかもしれない。
もちろん、川本氏は元々文芸評論家で英米文学に関しても深い知識を持っておられ、それに裏打ちされた作品なのだから、知識のある人が読んでも齟齬は無いだろうし楽しめるだろう。それでもフィクションの中に配置していく、作品として作り上げてある以上、実在の人物にも川本氏オリジナルの肉付けは必ずあるし、それが気になることもあるだろうと思う。逆に私はその作家たちにそれほど先入観がなかった分、そのまま飲み込めて楽しめたのではないかと思っている。
そしてもう一つのこの物語の主軸、ジョージとジュリアンの関係。奔放で誰のものにもなりそうにないジュリアンと、彼に辟易しながらも愛さずにはいられないジョージと。この2人の関係に『風と木の詩』を思い出した(出会いも寄宿舎だ)のだが、セルジュとジルベールともまた違う。ジュリアンは子供のように欲望のままに生きている。ジョージを常に振り回し、傷つけ、スキャンダラスな生活を楽しむ享楽的なジュリアン。正反対だからこそ惹かれる、だがそれだけではなかっただろう。そうでなければジョージは疲弊し、別れをどこかで選んだだろう。ジュリアンに疲弊しながらも、ジョージはジュリアンと別れようとせず、肉体的な関係が途絶えて一時は離れて暮らしたのに、それでもジュリアンとの関係を続けてきた。共に作品をつくり、時にはジュリアンの尻拭いをし、ジュリアンの庇護者でもあったジョージは、ジュリアンへの思いを語るのにloveを使わない。あとがきにかえて、の章で、川本氏のインタビューに答えるジョージは、あれは愛ではなく依存だったと語る。支配であり、束縛であり、依存だったと。彼はジュリアンに縋っていたと自身を語る。だが本当にそれだけだろうか。loveという言葉を彼が使えないことに、むしろ彼のジュリアンへの愛を感じるのは私だけだろうか。自身の感情に名をつけることができないほど、ジュリアンに溺れていた。ではジュリアンは?そっけない態度、ジョージを振り回し続け、勝手な生き方をしていたように見えるが、誰よりもジョージを必要とし、ジョージを失うことを恐れてすらいたように思えるところもある。アル中の自分勝手な母に育てられ、当時は否定されていた同性愛者であったジュリアンは、露悪的な振る舞いをすることで、それを超えて自分を愛してくれる存在を探し求めていたのではないかとも思える。いつも人に囲まれた、華やかな存在だったジュリアンだが、その内に孤独がなかったと言えるだろうか。家族と縁の薄かった、性質の違う孤独を抱えた2人が出会い、互いに依存するように愛し合ったことは必然だったのかもしれない。激しく、そしてどこか歪な2人の関係。ジュリアン・バトラーの真実の姿を書くことはジョージにとっての恋文だったのかもしれない。
強く結びついた2人の恋愛小説でもあり、そしてまた20世紀アメリカ文学史における当事者の証言でもある本書(フィクションだがこう言いたい)だが、読み終わった後に改めてジュリアンの作品やジョージの作品を読むことができないのが残念に思える。それほどのリアリティで構築されている。先に述べた参考文献の一覧を見るにつけ、本当にジュリアンの作品は存在しないのか、不思議な感覚に襲われる。
架空の人物伝というのは他にもあるが、これほどのリアリティを感じたものはなかったように思う。
苦手だ、守備範囲外だ、と言ってきたが、この作品を読むとここに出てきたものは全部読みたくなるのもまた楽しい。この本を20世紀アメリカ文学のガイドとして、出てきた作品を読むのもいいかもしれない。
とりあえず、なじみのあるカポーティから読み直してみようかと思う。

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