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「〇〇ではない」から始める(『父ではありませんが』武田砂鉄)

お久しぶりになってしまいました。
Book Clubのミウラです。

<プロフィール>ミウラ
1995年東京生まれ。2020年から鳥取で英語の先生。Podcast・Book Club運営中。2023年1月に潰瘍性大腸炎を発症。
個人のnoteも始めました。https://note.com/tottori_hitori

最初は身バレする気もなく始めたPodcastですが、だんだんと周囲の方にも聞いていただけるようになり、ありがたいです。
ちょっと怖いですけども。
というところで、2023年は更新が止まっています。すみません。(ニノさん、元気かな…)
せっかくなので、4月に読んだ本を、今回は記事の方で紹介したいと思います。

今回紹介するのは、こちら。

武田砂鉄さんの『父ではありませんが 第三者として考える』です。

奇しくも、Podcastで最後に紹介した本は、当事者研究とも言えるような、潰瘍性大腸炎患者の頭木さんの闘病記を、潰瘍性大腸炎になったミウラが紹介すると言った内容でした。(3月の記事をよろしければご覧ください。)

が、今回は真逆とも言える非当事者視点の本を紹介します。

「父ではない」男性の声が聞こえてこない?

「母ではない」私の視点

「父ではありませんが」という視点は新鮮な視点だ。
「母ではありませんが」という語りは意外とある。武田さんは、女性の方が子どもに関する「展望」を求められることが多いという。
私自身も、そんなひとりだ。正直なことを言えば、中高生の頃、素朴に今くらいの歳になっていれば、結婚していたり、子どもがいたりするのではないかと妄想していたのだけれども、実際のところはそうなっていない。

ニュースを見ていると申し訳なくなる。学校で習った少子化に拍車をかけているのは、どうも私のような未婚女性で、結婚適齢期なのに子どもを持とうとしていない人たちのことらしい。 子どもを産んだ人を表彰しようとか、奨学金を減らそうとかいう話を聞くと、私のような存在は褒められたものではないと思わされる。日本の政策や世の中は、(武田さんによると)「産みたいと思っている人が産めない状況」になっているという、全ての人が「普通」は「産みたい」と思っている前提が広がっているらしい。「普通の家族」を求めよ、という圧。すみません。

昨年紹介した『母親になって後悔している』は、母親の視点から語られた一冊で、日本だけでなく、異国のイスラエル(出生率が高い)でも、「母親」には大きなプレッシャーがあることがわかる。(今回の武田さんの本の中でも紹介されている。)

「父ではない」という非当事者の視点

一方で、子どもを持たない男性に対しては、そこまでの圧力はないようだ。
というより、子どもの有無にまつわる語りは、極端に女性によるものに限定されていると本屋の子育てコーナーを見た武田さんは語る。

ふと気づく。女性に向けては、子どもがいない、子どもを産めなかった、子どもを失った経験などが書かれているものがいくつもあるのに(もちろん、これらは同列に並んでいるからといって一緒くたに語っていいものではない)、男性に向けては「ある」「いる」という状態しかないのだ。私たちは常に、何かの当事者で、同時に、何かの当事者ではないのだから、父親ではない、という状態からの言葉もあっていいのではないかと思い立ったのだ。

『「ではない」からこそ』より(太字:筆者)

子育ての非当事者、つまり第三者的な視点から、この本では子育てや家族観に迫る。
一方で、その「父親ではない」という経験を持つという意味では、武田さんは当事者である。男性には、これまでそのような「子を持たない」あるいは「子を持っていない」語りは求められなかった。これはひとえに「子育て」が女性のものとされ、昨今ようやく男性も関わるものとなってきた社会背景もあるだろう。この本では、尋ねられることすらほとんどなかった視点の語りを通して、家族・子育て・社会を見つめ直していく。

当事者の語りと非当事者の語り

多様な生き方?

子どもの頃、いつか自分も親のように大人になると思っていた。
子どもの頃、いつか自分もテレビの中に映る家族のようになると思っていた。
子どもの頃、子どもを持たない生活や、結婚しない生活は想像しないことが「普通」になっていた。
(『結婚できない男』がコメディになるくらいで、子どもの頃、私は笑っていたはずだから。)

それは、何も子どもの頃だけの話ではないのかもしれない。
武田さんは、銀行での注意書きに、契約の説明の際には、高齢者は自分の子どもを連れてくるように書かれた文言を見つける。
老後の生活においても、子どもがいることが当たり前になっている。

だが、単身世帯が最も多い日本において、それはどこまで現実的なのだろうか。
その単身世帯も、子どもと別れて住んでいる人、子どもを亡くした人、未婚のまま一人で暮らしている人など、事情はさまざまだ。
それでも「子どもを育てる」場としての世帯、家族観は未だに根強い。(この家族観は伝統的とされているが、今残っているものは、近代以降に作られたもののようにも思う。)

「多様な生き方」を認めて、それぞれの人が生きやすくなるには、「当事者ではないので知りません」から先の想像力がますます必要になるだろうと思う。

多様性を認めるというのは、これまで認められなかった人たちの考え方を知って受け止めることはもちろんだが、どんな状況にある人でもそのあり方を否定しない、未熟だと決めつけない態度も含まれる。

『勝手に比較しないで』より

非当事者なので語れないとしても

今回の本を通して、武田さんは何度も「非当事者」「第三者」故の語れなさを語っている。「当事者の方が苦労を知っているだろうが…」と幾度となく前置きされる。経験を持つことの方が、圧倒的なのだ。

確かに子を持たない私が、子育てを語る時、それは机上の空論になってしまう。それでも、子育てを考えないわけではないし、私が未来の世代=子どもたちの世代をないがしろにするわけでもない。電車内のベビーカー問題などを見るとモヤモヤするし、女性を産む機械のように思われるのも嫌だ。

人は誰でも何かについては当事者でも、何かについては当事者ではないはずだから。それに、第三者は、「第三者という当事者ですし」と言ってみる。

あとがき より

まずは語れることを語る。そうすることで、相手は思っても見なかった視点に出会う。自分の中の「普通」を揺さぶられる。
本当の意味で他者を尊重し、多様性の中で生きるとはどういうことなのか?
言うは易し、行うは難し。
終わらない悩みのために、声が必要になるはずだ。

追伸

他のPodcastになりますが、「聞くCINRA」では筆者の武田さんの声を聞くこともできます。ぜひ、聞いてみてください!

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