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「労働者が最も尊い存在であってほしい」小林多喜二が理想とした社会が、自分にとっても理想なのかもしれない


先日、三浦綾子さんの小説『母』を読んだ。
『母』の内容は小説家である小林多喜二の母小林セキさんの半生を描いたもの。

主役はあくまでセキさんですが、本作を読み小林多喜二についてもっと知りたいと思った。

母親なので「わが自慢の息子」という多少の贔屓目はあるかもしれないが、セキさんが語る多喜二は、慈愛に満ちあふれ、常に世の中を少しでもよくしようと思いながら生きている。

小林多喜二について

小林多喜二と言えば代表作である『蟹工船』。正直、私は『蟹工船』の作者くらいの認識で、多喜二がどんな人物かを知らなかった。

多喜二のプロフィールをWikipediaで見てみると「プロレタリア文学」や「共産主義者」と聞き覚えはあるが、イマイチピンとこないワードが並ぶ。

調べてみると「プロレタリア文学」は社会的身分の低いひとたちのことについて書かれた作品で、「共産主義者」は貧富の差のない社会を実現しようとする思想の持ち主を指す。

多喜二自身、秋田の貧しい農家の生まれで、そのルーツが作品に色濃く反映されていることがわかる。

自らの意思を貫き命を落とす

おれは、社会のどん底にいる人に、生きる希望を与えたと小説を書いている。

出典:母

自分の作品を通して世の中を少しでもよくしたい

多喜二の思いは、ただそれだけだった。

だが、労働者搾取の国家構造を描き出した多喜二の作品を政府はよく思わなかった。『母』のなかでも多喜二が特高(日本の秘密警察)に追われている描写がいくども出てきて、まるで危険人物のような扱いをうけている。

そして30歳のとき、警察に捕まり拷問されたのちに殺された。

盗みもしていない、放火もしていない、殺しもしていない。ただ、世の中の貧しく苦しい思いをしている労働者のことを小説に書いただけなのに。


なにも願わず、なにも望まず、生きることがはたして幸せといえるのだろうか?


生きていることが一番大事。
死んだら元も子もない。

その通りだと思う。

ただ、なにもせず寿命を全うするより、多喜二のように自らの意思を貫き朽ち果てるほうが、よっぽど「生きている」と言えるのではないか。

『蟹工船』から学ぶ労働者こそ最も尊い存在ということ

『蟹工船』のストーリーをざっくり説明すると、出稼ぎの労働者たちが劣悪な労働環境で働くことに疑問を持ち、資本主と戦うためにストライキを起こすという内容。

私が大学生のころに『蟹工船』がブームになったことから興味を持ち読んだが、正直内容が難しく作品を読んだことだけで満足していた。

それから16年が経ち、偶然なことに『母』を読み、多喜二に興味を持ったこのタイミングで改めて『蟹工船』を読み返してみた。

奴隷のように働かされる労働者。
いっぽう、自らは手を動かさず私腹を肥やす資本主。

この構図は作品が書かれた約100年前と、今を比べてもさほど変わっていない気がする。

この言い方だと、いっぽうてきに資本主を悪者のような扱いをしているが、労働者の立場から見た世の中に対する率直な感想である。

「資本主には、資本主の苦悩がある」と言われればそうだろうが、私自身その立場ではないので「んなこと言われても知らん」となる。

そもそも、資本主と労働者が主従関係にあること自体望ましくない。

あくまで資本主は資本を提供し、労働者はその資本を活用して、モノやサービスを生み出し利益の最大化を目指す。

資本主と労働者は「相互関係」でなければならない


『蟹工船』のなかで労働者たちが、あまりにも過酷な環境下で労働を強いられているため、結果としてストライキを起こし反旗を翻そうとした。

資本主が「労働者の人達がいてくれるからこそ、自分たちはお金を生み出し、世にサービスを提供できている」という考えをもち、労働者たちを労わる姿勢があればこうはならないのではないか。

自らは汗をかかず大金をせしめる資本者だけが幸せになる世の中であってほしくはない。

労働者が最も尊い存在であってほしい


そんな思いはわたしのなかでも、多喜二と通じる部分かもしれない。

ただ、残念ながら世の中の構造として「いつになったら私たちは幸せになれるの?」と、他力本願でいても状況は好転しない。

だから『蟹工船』に出てくる労働者たちのように、自分たちの幸せは自分たちで勝ち取るしかないと感じたのであった。



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