幽世電車
智臣は走っていた。
真夏のアスファルトの上を、息を切らし、頬を伝って流れる汗を拭いながら、線路沿いの道をただひたすら。
ぎらつく太陽の光が追い立てるように智臣の背を焼く。その熱が背中を中心に全身を走り、体温を、それどころか血の温度さえぐつぐつと煮立つように高めている気がした。
制服のスラックスとワイシャツは走るには窮屈だ。智臣は第二ボタンまでシャツのボタンを外し、息を吐いた。
高校の数学の授業を抜け出してきて二十分、走り通しだった。中学時代は陸上部だったとはいえ、高校に入ってからは帰宅部の智臣には堪えた。
だが視界の端に駅を捉え始めている。もう少しだ。腕時計を眺める。発車まであと十分。間に合うかどうかぎりぎりといったところだ。
(その電車には乗るな。ゆきさん)
祈るだけでは何の意味もない。運命を覆すには祈りなど無力だ。行動こそが、その原動力となる。そのことは智臣も痛いほど分かっていた。これが二度目だからだ。だが、それでも祈らずにはいられなかった。
左手に田んぼが広がっている。右手には地元の有名メーカーのパン工場が建っており、配送の車と思しき車が頻繁に出入りしている。田んぼと田んぼの境界上に、歯科医院の大きな看板が立っていた。院長の満面の笑顔がプリントされた看板で、胡散臭さがこの上なかった。智臣のかかりつけの歯科医は、こうした看板に反対の立場だった。看板を立てるお金があるなら、その分を医療器具などの費用に回すのが、患者さんのためじゃないかな、と呆れ顔で言っていた。
「わたしは好きよ。人のために走れるあなたが」
彼女は電車に乗り込む前、そう言っていた。プラットフォームで、駆け付けた智臣は肩で息をしていた。そのとき彼女が見せた夕焼けのような美しくも寂しげな笑みを、智臣は忘れない。
そして彼女が乗った電車は消えた。何の痕跡も残さず、忽然と。それを知っていながら止められなかった智臣は無駄と知っていながら電車を探し求めた。沿線には警察や怪奇現象の自称研究家たちが溢れ、電車の行方を捜索していた。
彼女は自分が消滅することを悟っているようにも見えた。そんなはずはない、と智臣は思いながらも、再三の説得にもやんわりと拒絶を示した彼女は、知っていたのではないかという疑いが拭えなかった。
また、彼女が戻ってくるかもしれないという淡い希望を抱いてもいた。忽然と消えた電車。その行き先を、智臣は知っていた。なぜならば、かつて自分もその電車に乗り、この世から一度消滅したことがあるからだ。
だが、それから三年。彼女は決して戻って来なかった。
そして今度は高校の同級生の、智臣が片想いしている少女、ゆきが消える電車に乗り込もうとしていた。智臣にはそれが分かった。一度消えて戻って来たからなのか、消える電車の発着の気配を感じ取ることができた。
駅が目前に迫る。腕時計に視線を落とす。あと五分。智臣は力を振り絞る。
赤信号を構わず突っ切り、走ってきた車にクラクションを鳴らされる。「ばかやろう」と怒鳴られるが、それに振り返って答える余裕すらない。
駅に飛び込んだ時、電車は既に来ていた。
智臣は階段を駆け上がり、ホームに降りるとゆきの姿を探し求めた。そうこうしている内に発車のアナウンスが鳴り響く。焦る。ホームに人影はない。ということは、ゆきは既に乗り込んだ後ということだ。
(どうする。もう猶予はない)
笛の音が響く。電車が発車してしまう。智臣は振り返り、駅の外の光景を眺めた。熱で歪み、陽炎を生じた街の景色。明るい光の景色。電車の進行方向に視線を巡らせる。存在しないはずの、漆黒の闇が滞留したトンネルが広がっている。
智臣は決心した。笛が鳴り終わり、ドアが閉まる刹那、電車の中に飛び込んだ。戻れない旅路になることを分かっていながら。
智臣は唾を飲み込んで、周囲を見回した。
夕方の生徒会室。中にいるのは自分とゆき、それから会長の咲良だけだった。会計の智臣とゆきは、各部から提出された伝票を突き合わせて、台帳に入力していた。咲良は球技大会での会長スピーチの原稿をせっせと作っている。
智臣はゆきに誘われて生徒会に入った。そうでなければ生徒会の仕事になど興味はなく、面倒なだけだと入ることはなかっただろう。
智臣はゆきに片想いをしていた。ゆきは知る由もないだろうが、智臣が一年の春にゆきを廊下で見かけて以来の恋だった。いわゆる一目ぼれというやつだ。
そのゆきから誘われたのだから、これは好機かも、と智臣が期待を抱いてしまうのも仕方ないのかもしれない。だが、一年経っても二人の仲は驚くほど進展しなかった。智臣が奥手すぎたこともあるし、他人のことには鋭敏なゆきも、自分に向けられた好意にはとんと鈍いということもあった。
だがその智臣も、現状維持は好ましくなく、一歩を進めたいと切に願っていたから、勇気を振り絞って一歩を踏み出そうと決意したところだった。とはいえ、教室で衆人の目がある中でゆきを呼び出すような勇気はなく、生徒会室で二人になれる機会を待っているのだが、必ず他の誰かがいて思うようにいかない。
「あ、ちょっと教室に忘れ物しちゃった。取ってくるから、その間留守番よろしくね」
少し白々しい口ぶりで言って咲良が立ち上がると、智臣にウインクして慌ただしく部屋を出て行く。
今回は咲良に事情を打ち明けて、協力してもらったのだ。女子に自分の思いの丈を打ち明けるのは告白するのと同じくらい勇気が要ったが、それでも智臣は咲良と二人きりになる機会を捉えて相談し、離席してもらうこと、他に生徒会メンバーがいれば連れ出してもらうことを頼んだのだった。
「咲良さん、どうしたのかな」
ゆきが首を傾げて怪訝そうに咲良の立ち去った扉を眺めているので、智臣は緊張に震える声で「さあ、なんだろうね」ととぼけてみせた。
智臣は深呼吸して、心を落ち着けながらも、自分を叱咤して前に進め、と気持ちを高ぶらせ始める。
緊張で心臓の鼓動がゆきに聞こえるんじゃないかと思うくらい高鳴り、顔が火照って熱く、真っ赤なんじゃないかと思うと、自分は本当にゆきが好きなのだ、と実感する。
穏やかで優しく、人一倍痛みに敏感で、大人しく見えるけれど意外なところで大胆で、ガーベラのような温かみのある笑顔が特徴的だった。
きっかけは一目ぼれだったけれど、改めてゆきへの好意を実感したのは、合唱コンクールの練習のときだった。
ピアノを任された女の子が、曲の特定のところで繰り返しとちってしまい、それに業を煮やした男子の一人が厳しい言葉で彼女を責めたのだった。そのとき、普段は大人しいゆきが前に出て男子に反論した。
「失敗を責めて問題は解決するの?」
そう言われた男子はぐうと渋い顔をして黙った。するとゆきは振り返って伴奏の女の子の肩に手を置いて、「大丈夫だよ。落ち着こう」と励ました。
「どうして同じところで失敗しちゃうのかな」
女の子は怯えた表情を見せていたが、ゆきの言葉で安心したのか、どもりつつ失敗する場所が苦手で、苦手だと思うと緊張してミスをしてしまう、と説明した。
「いいよ、失敗して。でも、今度は失敗しても止まらず弾いて。あなたの伴奏が続いていれば、わたしたちは走り続けられるから。走り続ければ、失敗なんて気にならなくなるから」
そう言ってゆきはにっこりと笑いかけた。それに他の女子が同調し、男子からも「気にするなよ」という声が上がり始めた。
練習では失敗したりうまくいったり、半々だったけれど、伴奏の子は本番は間違えることなく、完璧に弾いてクラスを引っ張っていった。コンクールは入賞できなかったけれど、伴奏の子とゆきは泣きながら抱き合っていた。まるで金賞でもとったかのように。いや、彼女たちにとっては金賞だったのだ。本番を成功させた、そのことが。
その泣き笑いの顔を見たとき、改めて自分はゆきのことが好きなのだ、と確認させられた思いだった。
「白峰さん。白峰ゆきさん」
智臣は自分の声が震えている、それだけでなく、浮かべた笑みも引き攣って震えているのを感じた。だがその震えを止めることなんてできなかった。なら、一気に駆け抜けてしまえ、と次に告げる言葉を口の中に準備する。
「なに? 改まって」とゆきは真剣な顔の智臣を見てくすくすと笑う。
次の一言を発すれば、良くも悪くもゆきとの関係は変わる。親しい友人という間柄を捨てなければ、自分の望むものには手が届かない。だが、と智臣はゆきとのこれまでを思い出していた。
生徒会の買出し、という名目で二人休日に買い物に行ったこと。
球技大会でゆきが応援しているからと張り切って、盛大に失敗したこと。
運動会で怪我をしたゆきを保健室に連れて行き、手当てしたこと。
文化祭の準備で遅くまで看板を塗ったこと。
生徒会活動で過ごした二人の時間。
そこにもう新しい思い出は加わらなくなってしまうかもしれない。それでも、一歩を踏み出したい。
智臣は息を大きく吸って、ゆっくりと、ゆきに届くように願って言葉を紡ぐ。
「好きだ。白峰さん。君のことが」
心臓の鼓動の音がはっきりと聞こえ、耳鳴りがわんわんとうるさく響いていた。
言葉を受け取ったゆきはしばらくきょとんとした顔をした後で、頬を真っ赤に染め、「え、え、あの、え?」と明らかに狼狽した様子で視線を智臣から逸らし、そちこち泳がせていた。
「好きなんだ。白峰ゆきさん」
智臣は畳みかけるように言うと、じっとゆきの顔を見つめた。
ゆきも見つめられている熱視線に気づくと、俯きがちの上目遣いになりながらも智臣を見つめ、「本当にわたしを?」と恐々訊ねた。
智臣が無言で頷くと、ゆきは耳まで真っ赤になった。
ゆきは言葉を発せず小さくなって俯いてしまったので、智臣はそれ以上言葉をかけることをせず、じっとゆきの返事を待った。その時間はほんの僅かなものだったに違いないが、智臣にとっては永遠にも感じられた。永遠の時を地獄の業火で火あぶりにかけられているような時間だった。
やがてゆきはゆっくりと顔を上げた。そうして向き合った彼女の顔は、赤みが差していたけれど、しっかりと前を見据えて、揺るぎない意思があるように見受けられた。
「ありがとう。すごく、すごく嬉しい」
声にはっきりとした感情が乗っていた。喜びと興奮。智臣は安堵した。
「でも」
その二文字を聞いた瞬間、智臣は体温が氷点下まで冷え切っていくような絶望感を抱いた。
「わたし、引っ越すの。だから、あなたの気持ちには応えられない」
ごめんなさい。そう言って頭を下げたゆきの声は、先ほどの智臣に負けないほど震えていた。そしてその震えは緊張なんかではなくて、悲嘆という感情がゆえになさしめるのだなと智臣にも分かった。
その後どういう声をかけたのか、智臣は覚えていなかった。ただ自分の恋はこれで破れたのだ、という事実が頭をいっぱいに支配していて、ゆきの悲しみにまで手を差し伸べることができなかった。
ごめんなさい、というゆきの言葉は、いつまでも智臣の頭に残っていた。
気がつくと、電車の座席に腰かけていた。「大丈夫ですか」と青白い顔の車掌が顔を覗き込む。
「大丈夫です」と言いながら車掌の顔から逃れるように顔を背け、立ち上がる。
電車はもう動き出していた。その車両には乗客が二人いたが、ゆきではなかった。
(早く見つけて降りないと)
智臣は駆け出し、次の車両へと移る。背後で「走ると危ないですよ」と車掌が抑揚のない声で言っていたが、振り返ることもしなかった。
次の車両にもいなかった。そこには五人の乗客がいた。何人かは「何か変だ」と言いたげな不可思議な表情をしていた。
車窓に流れてくるのは、廃墟や荒廃した土地だった。草木が枯れ果て、黄土色の土肌ばかりになった大地と、崩れた建物群。人が生きているとは思えない光景が外には広がっていた。
あのときと同じだ、と智臣は身震いする。
十年前、自分が乗ってしまった電車と、同じ光景だと。
そうだとしたら、一つ目の停車駅で降りなければ。トンネルに辿り着く前に。智臣は急いで次の車両に移り、ゆきの姿を探し求める。
長い黒髪の後ろ姿を見つけ、駆け寄ると肩に手を置く。
「白峰さん!」
叫んだ声にはっとして雪は振り返り、そこに智臣がいるのを認めて驚いて目を丸くしていた。
「智臣くん。なんで」
智臣は首を振って、「いいから。降りよう」とゆきの手を掴んで引いた。
「どういうこと。痛いよ、智臣くん」
急ぐあまり強い力で掴み引っ張っていたことに気づいて力を緩めるものの、「説明している時間はないんだ」と外を指さして引っ張って行く。
「え……? ここ、どこ」
外の光景を眺めて、ゆきは絶句して左手で口元を押える。不安感からか目を瞬いている。
電車のアナウンスが、間もなく停車駅であることを告げる。
智臣とゆきは降車ドアの前に立って、駅に着くのを待った。
駅が見えてくる。駅舎を包む空は赤紫色に染まり、電線の上には無数のカラスが止まっていた。駅舎も荒廃したようにぼろぼろで、壁が剥げて鉄筋がむき出しになっているようなところもあった。
駅に着いて、ドアが開けばすぐに飛び降りるつもりだったが、駅のホームにひしめくように人の群れが固まっているのを見て、智臣も一瞬尻込みしてしまった。その一瞬の隙が徒となり、ドアが開いた途端に殺到した乗客の波に揉まれてゆきの手を離してしまい、その波に智臣自身が飲み込まれてしまった。
「第一の駅で降りれば、まだ帰る見込みがある。けど、トンネルをくぐってしまったらだめだ。代償なしには帰れない。運賃を払わなければ」
智臣の記憶の中で声が木霊する。暗いトンネルを駆け抜ける、闇の車両の中で、ライターでほんのり明かりを灯してくれた、若い青年の声。
トンネルを抜けた瞬間、智臣は押し出された。襲い来る乗客の波に抗うように外に押し出された。青年が後ろから支えてくれていたのだ。やがて波が収まると、智臣はぽつんと一人ホームに残され、振り返ると青年は弱弱しく微笑みながら親指を立て、幽玄たる乗客たちに飲み込まれて消えていった。
智臣少年は視力を著しく落とす、という代償を支払い、そこから帰還し、消え去る電車がいつ来るのか知覚する能力を副次的に得た。
智臣は我に返り、存在と不存在の狭間にいる乗客たちの波から顔を出し、息を吐いた。そして大きく息を吸い込むと波の中に潜り込み、ゆきの姿を探した。
乗客たちは智臣を取り込もうと、手を伸ばして彼を引きずり込もうとする。だが、智臣は確固たる意志でその手を跳ね返し、ゆきを探し求めて乗客の中を泳ぎ回った。
(第一の駅は過ぎた。何が何でも次の駅で降りないと帰れなくなる)
この幽世の電車のことを話したのは、幼馴染の彼女にだけだった。
彼女は都市伝説や怪奇現象の類が好きで、そうした話の流れでこの電車の話もした。その彼女のことは覚えていても、名前を思い出すことができない。それは電車に乗って消滅したからだった。そのことを、智臣を助けてくれた青年は教えてくれた。
彼女はこの話を聞いてから幽世の電車に心惹かれるようになり、いつ来るかと心待ちにしながら駅に通ったり、七夕の短冊に電車に乗ることを願いとして書くようになったり、やがては電車に乗った智臣に嫉妬に近い感情をぶつけるまでになっていた。
智臣には彼女がいつか電車に乗ってしまうのでは、という危惧があった。だからこそ、第一の駅で必ず降りろ、と何度も忠告した。しかし彼女が帰ってこないことを見ると、意図してかせざるかは分からないが、第一の駅では降りなかったのだろう。
(彼女は救えなかったけど、白峰さんだけは)
潜っていると、車両の奥の方に横たわった人影が見えたので、そこまで泳いでいく。果たしてそれがゆきだったので、智臣は彼女を抱きかかえると人波から浮かび上がり、顔を出す。肩を揺すってゆきに声をかけ続けると、彼女もやがて目を覚まして正気に返る。
「あれ……。わたし、なにを……」
朧げな意識から戻っていって、周囲の幽玄なる乗客たちを見て、外の荒廃した世界の光景を見て、ゆきは短く引き攣ったような悲鳴を上げ、智臣がゆきの口元を押えるので、その叫びをゆっくりと飲み込んだ。
涙を浮かべてこくこくと頷くと、智臣もゆっくりと手を離す。ゆきは乗客の波の中にいるのが恐ろしく、智臣にしがみついている。
「この電車は、異界に繋がる幽世の電車。このまま乗っていると帰れなくなる」
「どうしてわたし、そんな電車に」、そう言うゆきの顔面は蒼白だった。
「運命だったとしか言いようがない」
乗りたくて幽世の電車に乗ったのは、彼女くらいのもので、ほとんどの人間が電車に選ばれて乗ることになる。人生で一回しか関わらない人間もいれば、智臣のように繰り返し関わることになるケースもある。智臣を助けた青年も、何度も電車に乗ったことがあるような口ぶりだった。
「必ず次で降りないと。戻れなくなる」
ゆきは頷いたが、「ちょっと待って」と怪訝そうに智臣を見上げる。
「智臣くんはどうしてそんなに詳しいの」
「乗って、帰って来たことがあるからだよ」
智臣は言うかどうか迷ったが、もしも自分に何かあったときのために、代償についても話しておくことにした。
「次の駅で降りて帰れたとしても、僕らは代償という運賃を支払わなきゃならない」
例えば、と智臣はかつて帰還したときの代償として視力の低下を招いたのだと説明した。
「そんな。帰れたとしても、何かを失わなくちゃいけないの」
そう、と智臣は頷く。「何を失うかは自分では決められない」
ごおお、という音がして、電車がトンネルに突入し、車両内は真っ暗になる。きゃっ、と悲鳴をあげて、ゆきは智臣に抱きつくようにしがみつく。
「離れないで。大丈夫。暗いだけ」
智臣はゆきを抱きかかえたまま、手探りでドアの方へ進んで行く。
車掌のアナウンスが響く。もうすぐ停車駅だ。恐らく、第一の駅と同じように乗客が雪崩れ込んでくる。
流れは猛烈だ。それに逆らって踏み止まるのは難しい。だが、一列に並べば。前列によって後列は勢いが軽減される。そうすれば止まるのも決して不可能じゃない。
そう、かつて青年が自分を助けてくれたのと同じやり方だ。しかしそのやり方をすれば、後列の人間は取り残されて出られない。
すうっと自分の体温が下がり、背筋が震えるのを感じた。情けないな、と思う。智臣は抱きしめたゆきの耳元に唇を寄せ、そっと囁いた。
「ホームに降りたら二番出口。そこから出ているバスに乗れば帰れる」
電車が止まり、ドアが開く。
「好きだよ、ゆき」
そっと微笑んで、困惑するゆきにそう告げると、智臣はゆきを押し出してドアの外に立たせると、そのまま自分は踏ん張ってゆきの背中を支え、流れが過ぎ去るのをひたすら待つ。乗客たちはただ流れていくだけでなく、ゆきや智臣を掴んで引きずり込もうとするので、耐えるのは至難の業だった。青年が脱出できなかったのも頷ける、と智臣は感じながらも歯を食いしばって堪えた。
やがて流れが途絶えると、智臣は最後の力を振り絞ってゆきの背中を押し、完全にホームへと降ろす。
力尽きた智臣は乗客たちの流れに飲み込まれて行こうとしていた。それを振り返って見ているゆきが、必死に何かを叫んでいる。
(帰れない。でも、ゆきを助けられた)
彼女は救えなかった。その自分がゆきを救えたのだ。これで重畳じゃないか、と智臣は満足しながら流れに飲み込まれていく。
「そんなんで満足されちゃ、困っちゃうのよね」
長く真っ直ぐな黒髪にセーラー服を着た女が、閉まりかけていたドアの隙間に手をかけ、押し開けると、手を伸ばして智臣の手を掴んだ。
「あなたがこっちに来るのは、まだ早いわ」
乗客の流れをものともしない力でそこから引きずり出されると、智臣の体は女が押し上げたドアの隙間からホームに出て、宙を舞った後でベンチに落下し、体を強かに打ちつけた。
痛みに呻いている智臣に、ゆきが泣きながら抱きつく。
一体誰が助けてくれたんだ、と打ちつけた腰を擦りながら顔を上げると、走り去る電車の前に、一人の女性が立っていた。そこには、三年前と変わらぬ姿の彼女がいた。
「どうして君が」
彼女はにっと勝ち誇った笑みを一瞬浮かべると、真顔になって「早く帰りなさい。出口は分かってるでしょ」と二番出口の方を指さして言った。
「誰なの」とゆきは怯えた様子で言う。
「幼馴染なんだ。三年前、あの電車に乗って消えた」
そう、と彼女は頷く。
「それ以来、わたしはずっとこの世界にいる」
一緒に帰ろう、と智臣は手を差し出す。彼女は手を伸ばしかけてだが、諦めたように首を振って手を引っ込めた。
「出られないんだ。わたしはもう、完全に幽世の者」
そんな、と智臣が叫ぶと、ホームにいたコート姿の新聞を読んでいた男がすっと顔を上げた。
「大きい声を出さないで。いいの。君を救えたなら、わたしがここに来た意味もあるから」
彼女の言葉に、ゆきははっとして顔を上げる。
「さあ、行きなさい。振り返らず。あなたたち二人はまだ陽の当たる世界へと出られるのだから」
ゆきがじっと彼女を見つめているので、彼女は苦笑すると、「そんな目で見ないで」と首を横に振った。「いいの」とゆきが訊ねると、「いいのよ」と彼女は答える。それを見て、ゆきも納得したように頷く。
「行きましょう、智臣くん」
「いや、でも……」
言い淀む智臣に、「いいから」と強く促してゆきは手を引っぱって歩き出す。
「幸せにね、智臣」
彼女は呟き、去り行く二人の背中をいつまでも見送っていた。
二人は手を繋いで走り出し、二番出口への階段を上った。出口から出ると赤紫の空が何かを覆い隠すように広がっていて、空気まで色が染まって感じられた。質量のある、重い空気の中を歩き、バス停に近づいて行く。
「ここのバスに乗れば帰れるの」
ああ、と智臣は頷いて、腕時計を眺めながら「もうじき来るはず」と呟く。
ねえ、とゆきは意を決したように顔を上げて声をかける。
「あの女の子が助けてくれなかったら、わたしだけ逃がすつもりだったの」
智臣は「あー」と頬を掻きながら視線を泳がせたが、言い逃れはできないと諦めて、「そのつもりだった」と頷く。
ゆきは手を振り上げて、智臣の頬をひっぱたいた。甲高い音が赤紫の空気に木霊する。
「そんなの、嬉しくもなんともない!」
ごめん、と智臣はじんじんと痛む頬を押えながら、伏し目がちに頭を下げた。
「智臣くんを犠牲にして、それで助かって、わたしはどうしたらいいのよ」
ゆきはぼろぼろと涙を零し、しゃくりあげた。智臣は唇を噛み締め、もう一度「ごめん」と謝って空を見上げた。
「でも、ありがとう。助けにきてくれて」
バスが到着し、乗り込みながら振り返り、ゆきは言った。
「ヒーローみたいだった」
智臣は照れ臭そうに頬を人差し指で掻くと、バスに乗ってゆきの隣に腰かけた。
バスの中には他に乗客はいなかった。
やがて出発し、バスに揺られていると、まずゆきが疲れたのか眠りに落ち、眠るまいと思っていた智臣にも睡魔が近づいて来ていた。
十年前も、バスに乗った途端眠くなって、起きたら元の世界に戻っていた。思い出しながらも智臣の頭は眠気のために前後左右に力なく揺れていた。
(眠っては、ゆきもいるのに……)
思えば思うほど眠気は強まっていき、智臣は目を開けているのも困難になった。そしてゆきの頭にもたれるようにして首を垂れ、眠りに落ちていった。
仕方のない人ね。
声が闇の中に響いてきて、目の前に彼女が現れた。
これは夢だ、と智臣は思った。彼女とは別れてきた。目の前にいるはずがない。
彼女は手を腰に当て、悲しそうな笑みを浮かべていた。
「人生で二度も異界に足を踏み入れるなんて」
入りたくて入ったわけじゃない、と反論する。
「そうなんでしょうけど。でも、結果としては同じことよ」
忘れたわけじゃないでしょう、と彼女は厳しい声で言う。「代償を払わなければならないことを」
覚えている、と闇の中で智臣は頷いた。「今度は何を支払えばいいのやら」
「あなただけじゃない。あなたと一緒にいた子も代償を支払わなければならないのよ」
そうだな、と智臣は消沈して項垂れた。
「もう二度と、こっちには来ないって約束できる?」
どうしてだ、と智臣は彼女の問いに首を傾げた。
「いいから。約束できるの、できないの」
そうだ、こういう強引なところがあるんだったな、と智臣は懐かしくて嬉しくて思わず笑みをこぼしてしまう。それを見ていた彼女は不満そうに眉をひそめ、「どうなの」となおも迫った。
「分かった。約束する」
彼女は満足げに頷いて、「夢の中だから、あの子には悪いけど、いいわよね」と恥ずかしそうに言って、智臣にキスをした。
呆気にとられた智臣はきょとんとして彼女の顔を眺めていた。
「さよなら。今回の二人の代償はわたしが引き受ける」
そう言って彼女の姿は徐々に遠くなり、闇の中に溶けるように消えた。
気がつくと、智臣とゆきはバス停のベンチに座って肩を寄せ合って眠っていた。
目が覚めた智臣はゆきを揺さぶって起こし、周囲を見回す。空には白金のような太陽が燦燦と輝き、青空が広がっていた。田園の風景が広がり、遠くには街並みが見えている。
「帰って来た、の」
ゆきが智臣の袖にしがみついて、恐る恐るバス停の外を覗く。
「ああ、帰って来られたみたいだ」
智臣は安堵すると同時に、彼女を置いてこなければならなかった悔恨にも苛まれていた。夢の中で見た光景――彼女の言葉。それらが夢ではなく現実のものであったなら。自分たちは代償を支払わない代わりに、彼女にその負担を押し付けたことになる。
(それでよかったのか?)
智臣はそう自問せずにはいられなかった。だが、しがみついてまだ震えているゆきを見ると、これでよかったのだと思うこともできた。どんな形であれ、ゆきを助けることができたなら。それ以上の成果を求めるのは欲張りというものだと。
「ゆきさん」
智臣が名前を呼ぶとゆきは顔を上げて見上げた。
「やっぱりあなたのことが好きだ」
「智臣くん、でも――」
「離れていてもいい。あなたを好きでいる自分を、偽りたくない」
ゆきは潤んだ目で智臣を見上げていたが、やがて顔を逸らして伏し目がちになると、長いまつ毛が彼女の目を隠した。
「わたしも好きよ。でも、あなたのように真っ直ぐに想えるか分からない」
智臣はいいさ、と首を振った。
「会いに行くよ。ゆきさんのいるところまで」
ゆきは頷いて、「わたしも。智臣くんに会いに来る。そうしなければ、フェアじゃないもの」と言って笑った。
ゆきを守るために代償として彼女を犠牲にした。その事実は智臣の心に暗い影を落としたけれど、今はただ、ゆきを守れて、その笑顔を再び見ることができた。その勝利にだけ酔いしれていたいと、心の奥底で願っていた。
あの赤紫の空の下で永遠のときを過ごす、彼女の姿から目を逸らして。
〈了〉