無題62

『想像ラジオ』を読んで、生を思った

ご覧いただきありがとうございます。とんです。
講義で紹介があった、いとうせいこうさんの『想像ラジオ』を読みました。その感想・考察です。

いとうせいこうさんと言えばEテレのビットワールドのセイコーのイメージを子供の頃から持っていて、まさかあんな大家だとは存じあげませんでした。この『想像ラジオ』という作品も、賞を取るほど良い作品であったにもかかわらず知らなくて、今更出会ったことに後悔が拭いきれません。

そんな『想像ラジオ』、講義の中ではあらすじどころか話の進み方やオチ、受けた評価まで聞いてしまった状態で読み始めたので、はじめは「ああ展開が読める…」「けっこう上っ面でありきたりなのでは…?」と思っていました。しかし読み進めるうちにこれが大変に素晴らしい。「どうして当時出会わなかったんだ!!」と過去の自分を恨むほどです。

ぜひ、みなさんにもご興味を持っていただきたいなと思い感想を書きます。
また読んだことがある方は共感、批判をお待ちしております。

あらすじ

東日本大震災を下敷きにした物語です。(個人の目から見た具体的な描写も少し登場します。苦手な方は避けてください)
津波により高い一本の杉の木の上にひっかかってしまった一人の男性・アークは、その場所からとある目的のために「想像ラジオ」を発信します。
「想像ラジオ」とはリスナーの想像の中で流されるラジオで、ジングル(「想ー像ーラジオー」)やリクエスト曲、アークの声までも、リスナーの頭の中にのみ存在します。

敢えてネタバレを防ぐためにミステリ風に謎を問いかけるとすれば、
・「想像ラジオ」がいったいどんな内容なのか。
・アークの目的は果たされるのか。
・「想像ラジオ」が聴こえるのはどんな人たちなのか。
そして、
誰のための物語なのか。

この問いのうち後ろの2つについては、のちの感想で少し書いています。

全5章で構成されていて、1、3、5章は「想像ラジオ」の放送の様子が、ラジオそのもののような軽妙な語り口で描かれます。2、4章は被災地にボランティアにいった、「想像ラジオ」が聴こえたり聴こえなかったりする外部の人々の様子が登場します。



以下ネタバレを含みますのでご注意ください。

感想① 誰のための物語か?

読み終えて一番に頭に思い浮かんだのは、「これは死者のための本なのか、生者のための本なのか」という疑問でした。

まずアークという人間の語る内容から、自然災害という「突発的で誰が悪いわけでもなくて逃げることのむずかしい出来事」によって突然命を奪われることに対する無念さ、悲しみとともに、まだ死にたくなかったという後悔、未練が読み取れます。

主人公のアークは死者であり、この世に対して未練を残しているような描写がいくつもあって、読んだ人は「その死が無念であった」ということをひしひしと感じるだろうと思います。自然災害で多くの人の命が奪われるなんていう悲しいことがあってはならない、そういった意思も伝わってきます。
ですが一方で、描かれるその死者の声はどこまでも明るく、そして考えていることは生きている妻や息子のことでした。

アークの亡くなった家族、家族で聴いているリスナー、同僚を探しているリスナーは、どなたも明るい気持ちで死を受け入れ、死者を見送り、生者と別れて行きます。このように、「想像ラジオ」は死者にとって孤独を慰める手段であるとともに、仲間とともに死を受け入れるための声でもありました。

アークは「妻が生きている、妻が自分のことを思い出して語っている」という「想像」により慰められて成仏します。
この描写はまるで、生きている人たちに対して死者を懐かしんでくれ、悲しまないでくれ、生きてくれと言っているかのようです。これがもし「妻と息子が自分の死を悲しんで途方に暮れている」という描写ならば、アークは死を受け入れて成仏することはできなかったことでしょう。

ここでは、以上の内容が全て『想像ラジオ』という作品の中での作者の「想像」である、という点に留意せねばなりません。
死者たちが、死をこんなにもなめらかに朗らかに受け入れたのか、最期まで生者のことを考えていたのかは本当のところはわかりません。おそらく正反対の死を迎えた人だって、描かれなくともたくさんいたことでしょう。ですが作者はそれを描きませんでした。
作者が生者である限り、この内容は「想像」以上の何物にもなりえません。その「想像」の中で作者が伝えたいメッセージであり、作者が「信じたい」メッセージは一つです。生者に、強く生きてくれと伝えたいのです。このメッセージがなければ前を向いて生きていくことが難しい人はたくさんいるはずです。

「想像ラジオ」のリスナーは、アークに支えられ、アークとともに死を受け入れていきました。アークが死んでいることに気付き、「想像ラジオ」が聴こえていない奥さんが生きていることに、途中で気付いていた人も何人もいたことでしょう。「ラジオ」を聴いている人の中で一番死を受け入れられていなかったのはアークであり、そのアークを通じて人々は自分の死を受け入れつつ、死を受け入れないアークを優しく見守ります。

「想像ラジオ」はその名の通り「想像」です。そしてもう一度言いますが、『想像ラジオ』の内容も作者の「想像」です。「妄想」と言ってもいいでしょう。
その作者に対して、死者の気持ちを代弁しているなんて想像をするのは傲慢だと思われる方がいらっしゃるかもしれません。作中でも「死者の声が聞こえるなんて勝手に言うのは死者への冒涜だ」といった発言がありました。死者が「生きている人の幸せを願っている」という描写は、あまりにも自己愛的で、確かに死者への冒涜と言っても過言ではありません。
ですが、生きている人の方が大事だという意向に沿えば、生きている人がいつまでも死者にとらわれていてはいけないと思います。生きている人・残された人は、生きなければならないのです。
冒頭の問いに答えるならば、この本は死者への鎮魂ではなく生者への生への命令だと私は考えます。

我々はそう「想像」しなければならないのです。死にとらわれてはいけない。生きねばならない。生きなければ死者が報われない(これは巡り巡って死者のことを考えてしまっているとも言えますが、むしろ死者を思うならば生きてくれというメッセージでもあります)。



感想② 「想像ラジオ」は誰に聴こえたのか?

「想像ラジオ」が聴こえる人とはどういう人たちだったのでしょうか。先ほど少し話してしまいましたが、アークの奥さんや息子には聴こえていないようです。この描写からは、「想像ラジオ」が死者にしか聴こえないものであるということがわかります。
対して、2、4章で描かれる被災地を訪れた生者の中には、ラジオが聴き取れる人が存在しました。彼らの中で聴こえる人と聴こえない人がいるのはなぜでしょうか。

死者にしか聴こえないことを考えると、生者の中でも死者に寄り添えている人間に聴こえるのでしょうか。
だとすれば、アークの家族はアークに寄り添えていなかったのでしょうか。そうは思えません。アークのことを偲び、アークを思い出そうとしている彼らは、作中で最もアークという人間の人生に寄り添っています。

ではどんな人たちに聴こえるのか。
言い方が難しいのですが、「死を意識している人」に聴こえるのだと考えます。

生きている間も死や死後の世界について考えている人はそうそう多くありません。自分に死が訪れることを意識している人は少ないです。被災経験から死が間近に迫って初めて死を意識する人だっていたことでしょう。そしてこの被災経験は、生き残った人に強烈に生を意識させるものではないか、と「想像」します。被災していないので「想像」しかできません。

周りの人がたくさんたくさん亡くなった中で、自分は生き残った。この経験は、自らの生命の価値や生きる意味を考えさせる経験になってしまうものだと思います。
亡くなったアークと生きている我々(妻・息子)を明確に区別し、アークを死者として思い起こすことで我々は「対照的に」生者に成り得ます。

そこで、対照的生者である妻や息子には「想像ラジオ」が聴こえず、鎮魂のためにボランティアを行った死者を思う他地域の人々は「想像ラジオ」を聴くことができたのではないでしょうか。

被災をしていない我々は、このボランティアの人々の立場にいます。死者の魂を思い、無念な死を思うことで、きっと我々にも「想像ラジオ」を聴くことができるでしょう。

「想像ラジオ」を聴くとは、死者の気持ちを想像するということなのです。


おわりに

被災者の方々が、なぜ死ななければいけなかったのか、なぜ苦しまねばならなかったのか…。記憶にあるうちで初めての大きな災害の直後から、そのことばかり考えていました。何も悪いことをしていないのに。かわいそう。かわいそう。どうして。それでも答えは見つからないままです。
この作品は、その答えよりももっと先にありました。私は彼らの死を思うばかりで自分の生に目を向けられずにいたのです。なぜ生き残った人々が生きねばならないのか、その答えを見つけたような気がします。

来月の3月11日には、日本中の人々があの出来事を思い返すことでしょう。その際に、明るい気持ちで死者を思い、生きることを願う人が増えたら良いなと、傲慢ながら思います。


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