自分の手助けに疑問を抱える人に
自分の手助けに疑念を持ちながら日々に飛び込む私たち
こんな記事を読みにくる多くの方々は、日々、他者を助けるために力を尽くしているのだと思う。
親として、友人として、同僚や上司、部下として、あるいは社会全体の一員として、誰かの力になりたいと行動してきたはずだ。
その姿勢は本当に尊く、輝かしい。
そう私や周囲の人々から日々言われたしても、どこか心に疑念を持ちながら日々の支援に飛び込んでいるはずだ。
世界を破滅から救う、でもだれも気づかない。たとえ気づいても、誰も気にしない。爆弾が世界に破滅を、もたらさない限り(TENETより)
私自身、医者に限りなく近いIT仕事をしていると、正直自分がやっていることが本当の意味で他人のためになっているか、自信が持てなくなる日もある。
今日も動いて当然とされるITシステムたちを大人数で開発・運用し、システムトラブルの悲鳴を止めるべく緊急オペを行い、増え続ける予防やIT向け電子カルテアプリへの移行の案内のスライドをこさえ、説明していく。
そうしたなかではどうしたって予防の大事さや、IT向け電子カルテの重要性なんかを説明したりするわけだが、当然ながらほとんどの人は興味を持てるはずがない。
これらは後戻りできない悲惨さを目撃したり繰り返し学んできた、現場にいる私たちにしか実感が持てないのだ。
そもそも破局がやってこなかったことについて、いちいち注目する人はいない。破滅が迫って影響を受けた人でさえ、そのほとんどは、私たちの努力と彼らの生活の接点には気づかないままだろう。
大統領をしてきたオバマの回顧録にも、世界金融危機の顛末に関してそう書いている。
自分の役目は果たせているのか?
オバマ自身はそれでも感謝の手紙を受け取り、私自身もまた幸運にも感謝を述べられることも多いが、そうであったとしても今日も、私たちは自分の役目を正しく果たせず憔悴することも多い。
予防の大事さや、それを解消する新しいITシステムの重要性が、私の組織の人々にすらうまく伝わっていない気がする。
会社組織の人々が信頼できず転職しようとしている妹に、まともなアドバイスひとつもできないまま頷いていて、それっきり何も手伝うことはできてない気がする。
もうひとりの妹はこれからの進路をより良くするにはどんな能力が必要か追い求めて大学もバイトも必死にトップを走っていて疲れていそうだが、ただ一緒に原神やスターレイルを教えてもらうだけに終始していてさらに疲れさせてしまっている気がする。
これから妻となる彼女が「仕事は嫌いだけど会社のみんなは好き」と言っていつか転職するかどうか悩んでいるのに、どんなふうに仕事が嫌いだと思っているのかすら理解できないまま、これからの結婚式についてニコニコ話してるだけな気がする。
そんな役目を果たせているか自信を持てない私が最近読み始めているのが、この「人を助けるとはどういうことか」だ。
「人を助けるとはどういうことか」の哲学
この本の中では、支援者とクライアントといかに不平や不満なく協力関係をつくっていくべきか、科学というよりは哲学が書かれている。
特に、経済と演劇のなかで、人間社会の中に演劇としての側面、つまり役を演じるということが言及されていることが、かえって現実に即しているように感じて気に入った。
教える側や手助けする側にはどうしたって感謝しなければならない相手、と強制されがちである側面や、それが教わる側や手助けされる側に大きな負担になるということを、きっちり捉えてくれているからだ。
そうしてこの本では7つの原則として、次の哲学が書かれている。
「原則6: 問題を抱えている当事者はクライアントである」と
「原則7: すべての答えを得ることはできない」は、非常に重たくのしかかってくるようにすら思える。
妹たちにしろ、彼女にしろ、会社の中の人々にしろ、状況のすべてを知り得るのは彼らだけだと、改めて思い知らされるからだ。
ただ、この記事を読みにくるほどの人は、そんなことはもう知っているはずだ。
私はむしろ、ほかの原則たちやこの本の一文一文に、明日誰かの手助けをするときの会話のなかで、明らかに役に立つと思えている。
特に、問題がわからない時ほど問いかけの中で、状況への関心や思い入れを伝えながら、人間関係を築く意欲をお互いに高めていくことの大事さが書かれている。
恥ずかしい話だが、問題がわからないときは、期待されたように機械的に問い合わせの処理ができずかなり高いストレスを抱え、疲れてしまうことが私は多かった。
むしろそうした機械的な処理は控えて一緒に悩むフェーズに入っていい、と思えたとき、少し肩の荷が降りたように感じた。
問題がわからないときほど立ち止まって一緒に考える勇気を持つ、というわけだ。
助ける側の立場にいると、こんな気持ちを抱くことがないだろうか。
「自分が頑張れば、もっと誰かを救えるのではないか」
「私が止まったら、誰かが困るのではないか」
その思いは人間固有の愛着から生まれ出るものらしく、だからこそ、私たちは走り続けてしまうらしい。それが人間が社会的な動物と呼ばれる所以なのだろう。
とはいえ、クライアントもまた、何もできない無力な存在なわけじゃない。
状況への関心や思い入れを伝えたとき、むしろ情けなく「さっぱりわからないです」と言ってしまう姿をみせてしまったときほど、協力してくれるクライアントは実はかなり多い。
そんな些細なきっかけから、人間関係を築くことは実は簡単なのだ。
脇役の支援者、主役のクライアント
クライアントから対等に協力を得ることができれば、「原則6: 問題を抱えている当事者はクライアントである」や「原則7: すべての答えを得ることはできない」は重くのしかかる現実というより、むしろクライアントを主人公にした問題解決に至るまでの物語を担う鍵になる。
それで実際に問題が解決できればいいが、喜劇にしろ悲劇にしろ、クライアントの物語であって、我々支援者はしょせん脇役に過ぎない。
私としてはそう思えただけでも「自分が頑張れば、もっと誰かを救えるのではないか」なんてのは、自分がクライアントとして誰かに助けを求めるときにこそ集中すべきことだったんだ、と気づくことができ、とても良かったと思う。
私にはIT開発者・運用者としての、支援者としての役目は常についてまわるが、ほかのときには始終クライアントの立場でしかない。電車に乗る時もコーヒーを買う時も年末調整する時も、私は支援者なくしてやっていけない。
結婚やそれに連なる今後の人生においても、クライアントとして、ますます多くの支援者に頼ることになってしまうだろう。
だからこそ、私はむしろ、私を助けてくれる支援者の人々が望ましい支援をできたと信じられるようにするためにこそ、クライアントとしての努力を重ねなければならないのだ。
それはまた、学生時代に戻るようなものなのだろうし、自分がプロデューサーになるというようなものなのだろう。
また進路に迷い、相変わらず自分が何を願っているのかさっぱりわからないまま、要求も要件も仕様もあいまいなまま、誰かにお願いする恥ずかしい存在になってしまうのかもしれない。
この記事を読む多くの人にとっては、私以上にクライアントの立場は思う以上に居心地が悪いかもしれない。
でも私たちは、すでに支援者としての立場は十分わきまえているはずだ。
私もこれからは、この本を読み返しながら、どの立場であったとしても関係の構築に尽力したいと思う。