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【バレエレビュー】東京バレエ団×金森穣(noism)『かぐや姫』

日本のバレエは世界に何を発信していくのか

概要

 2023年10月20日(金)から22日(日)、東京・上野の東京文化会館で『かぐや姫』が世界初演された。東京バレエ団が『東京バレエ団 創立60周年記念シリーズ1』で、「日本が世界に発信し得るバレエを」と、Noism Company Niigata 芸術総監督の金森穣に委嘱して作られた作品である。

 日本最古の物語文学『かぐや姫』を題材に、音楽はクロード・ドビュッシー、衣装はSOMA DESIGNの廣川玉枝、美術には木工作家の近藤正樹、照明はnoismで長く担当している伊藤雅一(RYU)、という名だたるクリエイターの力を終結させている。
 キャストは2組で構成されている。かぐや姫・道児・影姫の順に、ファーストキャストが、秋元暎、柄本弾、沖香菜子。セカンドキャストは足立真里亜、秋元康臣、金子仁美、という顔ぶれである。

 本作はクリエーションの方法が特殊で、全3幕のうち1幕ずつ、期間を空けて制作・上演されてきた。2021年の春に制作が開始され、第1幕は同年秋に上演、第2幕は2023年春と続いた。満を持して今回、第3幕を含めた全幕が、世界初上演されたのである。

金森への委嘱の背景

 東京バレエ団の創設者である故・佐々木忠次は「世界の超一流オペラを日本人に見せる」「日本のバレエ団を世界で認めさせる」という夢の元、戦後早いころから、海外カンパニー招聘、海外公演の実施や海外振付家への振付を委嘱してきた。当時西洋で注目を集めていたモーリス・ベジャールやイリ・キリアンとも関係が深かった。特にベジャールは、1986年に歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』を題材に『ザ・カブキ』を東京バレエ団に振り付けており、パリ・オペラ座をはじめとするヨーロッパのオペラハウスで成功を収めている。ただ、日本人の振付ではないことに疑問の声もあったため、次のステップとして、現芸術監督の斎藤友佳里は勅使河原三郎に振付を委嘱するなど「日本人振付家による制作」を着実に進めてきた。

 一方の金森は、舞踊家の親の元に生まれ、17才で渡欧。ベジャール・キリアンの元で、ダンサー・振付家として経験を積んだ。日本に帰国後は、りゅーとぴあ 新潟市民芸術文化会館を本拠地とするnoism company niigataを立ち上げた。舞踊の正確な継承が難しい中で、集団の共通言語として、西洋と東洋の文化を融合させた『noismメゾット』を確立するとともに、「地方から東京」ではなく「地方から世界」を目指して日本の劇場文化の発展に尽力を尽くしている。

 まず初めに、東京バレエ団も金森も、海外、しかも同一の振付家たちとの関係が深く、日本から世界を目指すという点での共通項が、日本発の全幕バレエを生み出すきっかけになったことは言うまでもないだろう。

公演の様子

 3日間のうちの初日の20日の秋元、柄本の公演の様子を以下に記したい。

ープロローグ・1幕ー
 プロローグは、翁が竹藪へ向かうところから始まる。緑の精が竹藪へと姿を変えて舞うシーンは、本物の竹藪のざわめきが、目の前に表れたようだった。特にシーン中盤が印象的で、ダンサーたちが舞台中央に集まりひし形を形作り、各々が腕を左右前後に、宙にたなびかせるように動かす。目の錯覚か、腕に引かれた緑のラインがダンサーの体から浮き上がるように見える。照明の模様も相まって、風にふかれた竹の葉同士がぶつかり合い、ざわざわと音を立てる様子そのものだった。始まったばかりの舞台に期待を抱かせる、圧巻の群舞だった。

 1幕では、かぐや姫の誕生から道時との恋までが、一気に描かれる。成長したかぐや姫が、村で童たちと元気に駆け回る場面では、秋元の空気中に刺すようにするどく、はじけるような跳躍が際立っていた。道児役の柄本は、村人たちに虐げられながらも、それをものともしない前向きで、働き者のキャラクターを力強く演じた。

 かぐや姫と道児が出会うシーンは、ジョン・クランコ、ケネス・マクミランそれぞれの「ロミオとジュリエット」の出会いのシーンを思い起こさずにはいられない。村人たちが騒々しく動き回る中で、お互いから目を話せず、2人だけがその場に立ち尽くす。ロミオとジュリエットも、周りが舞踏会を楽しんでいる中で、二人だけが互いを見つめ、立ち尽くしていた。ドラマティックバレエでクランコ・マクミランたちが追求した演劇的な演出が、巧みに取り入れられているようだった。

 『月の光』の音楽にのせて踊られるかぐや姫と道児のパ・ド・ドゥは、今までの活発な2人とは打って変わって、ロマンティックな大人の踊りだ。徐々に相手に身をゆだねるような動きが見え、二人の心理的距離も縮まっていくことがわかる。後半に登場する、下から上に勢い良く持ち上げる、重力を感じさせるリフトは、恋に落ちた時の気持ちの高揚を感じさせる。そのまま上でかぐや姫がポーズを保ちながら、舞台上を流れるように旋回していく様子は、恍惚としたかぐや姫の心情そのものだった。

ー2幕ー
 2幕は、一気に変わって宮廷が描かれる。多様な人物が次々に登場する中で、異なる種類の動きによって、登場人物の性格を見事に表していた。
 影姫役の沖加菜子は、腕の使い方、上体の捻り方や鋭い目線の送り方により、気高さと妖艶さが舞台全体に広がる。幕間に、観客の女の子2人が「影姫が1番好き!」と盛り上がっていたのも納得で、観客の心を一気に掴む、主役食いとも言える登場シーンだった。

 宮廷の男たちは、地面を踏み鳴らすように、時には地面を這うように、かぐや姫に近づく。もはや人間の姿ではなく、獲物を前に我を忘れた獣のようなおどろおどろしさは、ベジャールの『春の祭典』を思い起こさずにはいられない。ベジャール作品を踊ってきた東京バレエ団の男性群舞だからこそできる、命がほとばしるような表現だった。

 宮廷の頂点である帝は、大地を踏みしめるように腰を落とし、軸をブラさないようにすり足で水平に移動していく動きが目立った。noismで取り入れている大事な要素の1つ・能の動きを取り入れているように感じる。大臣たちに比べて激しさはないものの、内にとめどない力を秘めているように感じられ、高い位の存在であることが、動きの違いに酔って表現されていた。

 1幕を受け、ラストへとつなぐ2幕だからこそ、物語る演出の腕が光っていた。
かぐや姫を追って宮廷にやってきた道児とかぐや姫の2回目のパ・ド・ドゥでは、1幕のパ・ド・ドゥで使われたピアノ音楽『月の光』が、オーケストラ版となって再度使われる。このリプライズはミュージカルでよく使われる技法である。ここでもその効果は同じで、2人の愛が変わらないながらも、二人を取り巻く環境に変化が起きていることを、音楽の力を使って効果的に表現していた。

 舞台セットの使い方も圧巻だ。道児を探し走るかぐや姫の前に、ただ真っ白なだけの壁がたちはだかる。それらをかぐや姫が両側に除ける時、ただの白い壁は宮廷の襖になっていた。最後の襖を開けて、「やっと道児を見つけた」と思ったら、扉の先にいたのは帝だった。その時の観客の悲痛・絶望感は、かぐや姫の心とシンクロしていたに違いない。

ー3幕ー
 3幕は、2幕ほど目立つ場面はなかったが、白いタイツを全身にまとい、腕にはチュチュの生地のようなレースを付けた光の精の集団が舞台を埋めつくすシーンは、19世紀クラシック・バレエが作り上げたバレエ・ブランのオマージュであることは間違いないだろう。白鳥の湖の白鳥たち、くるみ割り人形の雪の精たちやラ・バヤデールのニキヤの幻想たち、すべてがこの世の人物ではないとおりに、光の精たちが、かぐや姫を連れ戻しにきた異界の者であることがひとめでわかる。

 ラストでは、誰もなすすべもなく、『夢想』の音楽とともに、天へと帰っていくかぐや姫。動きとしては、ただ階段を登っていくだけなのだが、その凛とした背中は神々しく光り輝き、さっきまで一緒に生きていたはずのかぐや姫が、異界のものだと気づかされる。ただ階段を登っていくだけで、かぐや姫の人間離れした神々しさを表現していた。

東京バレエ団と金森が目指した「世界に発信する日本のバレエ」の意味

 さて、東京バレエ団が金森に求めた「日本が世界に発信し得るバレエ」とは、どういう意味だろうか。ベジャールの『ザ・カブキ』によって「日本人の持つ価値観」を伝えているし、勅使河原三郎という世界的に名声高い「日本人振付家」による作品も制作している。
そんな中で、金森はこの意味をどう受け止め、どう応えたのだろうか。

ー「融合」というキーワードー
 改めて『かぐや姫』の特徴を元に考えていくが、至る場面で感じた「融合」をキーワードとして挙げたい。金森は、舞踊以外に演劇などの異分野との融合を『劇的舞踊シリーズ』の中で実践してきており『かぐや姫』をその流れに位置づけていることからも、何かしらの形で「融合」が肝になっているのは明らかだ。

 演出に関しては、緑の精の群舞の美しさ、光の精によるバレエ・ブランなどにより19世紀の古典バレエを、目線の使い方や重力を感じさせるリフトなどにより20世紀のドラマティックバレエを想起させるのは、先に記した通りである。

 身体表現の観点では、noismメゾット自体が、西洋と東洋の身体の動きを融合させたものだ。今回はそこにクラシック・バレエを要素として加えている。男性は能や日本舞踊を思い出させるすり足や、腰を下に落としたままする水平移動などnoism、特に東洋の下に向かう動きが見受けられる一方で、女性ダンサーはポアントを履き、跳躍やリフトによって上を目指す、クラシックの動きが見られた。

 つまり、『かぐや姫』の中で、「バレエという歴史を融合」し、「noismとバレエという異なる動きを融合」していると言えないだろうか。

ー新しい表現を生み出すために必要なことー
 ここで忘れてはならないのが、どの演出・動きも「時間をかけて鍛錬してようやく習得できるもの」ということである。バレエは当然のことながら、自国の芸術である能や日本舞踊も、訓練をしていない一般人にできる動きではない。つまり、どんなに振付・演出家が表現の種類を盛り込み、新しい表現を目指したとしても、それを形にする表現者(ここでは特にダンサー)がいないと、新しい表現は世に出ないも同然なのだ。

 だからこそ金森は新潟の地で、時間をかけて鍛錬できる環境の必要性を痛感しながらも、なかなかその環境を用意できない日本の劇場体制に苦言を呈し、その改善に向けた取り組みを続けているのである。

 東京バレエ団は、新しい動きを自分のものとして習得できるだけの技術・環境が成熟しているバレエ団である。それは、レパートリーの多様さからだけでなく、海外公演における

『(ベジャール作品を)誇りを持って披露するだけの、スタミナと実力がある』(Giuseppe Pannisi:2019年ミラノスカラ座公演について:筆者訳)
『表現力に富んだ表情、軽やかなジャンプ、重力をものともしないのびやかさ』(KAREN VAN ULZEN:2023年オーストラリア公演でジゼルを踊った秋元について:筆者訳)

という評判からもわかる。

 そして、異例の製作のプロセスによって、金森は新しい演出・動きを想像する時間が、ダンサーたちはそれらを自分の身体に落とし込んでいくための時間があった。

 「優れた振付・演出」と「表現を具現化するのに必要な身体」、これらがそろって初めて、世界のクオリティに並び立つ作品は生まれる。つまり「世界に発信する日本のバレエ」とはこれらを兼ね備えた作品のことではないだろうか。「『日本にも、世界に並ぶ創作ができる土壌がある』というメッセージを発信することが金森の応えであり、東京バレエ団も望んだことなのだ」と、製作のプロセス・出来上がった舞台の質から感じることができた。

 初日の観客が舞台の前方へ駆け寄り、スタンディングオベーションだった。その様子からも、日本人にとっては誇らしい舞台になったことは間違いないだろう。この後、noismの本拠地である新潟での上演を経て、世界で上演されたときに、世界の人がどういう反応をするだろうか。楽しみに待ちたい。

(引用)
Giuseppe Pannisi.”Mastery and Versatility”.Classical Music daily(2019年7月23日)
https://www.classicalmusicdaily.com/2019/07/tokyo.htm
(2023年10月25日閲覧)

KAREN VAN ULZEN.”REVIEW: Tokyo Ballet's 'Giselle'.”.DANCE AUSTRALLIA(2023年7月13日).
https://www.danceaustralia.com.au/reviews/review-tokyo-ballet-s-giselle
(2023年10月25日閲覧)

(参考文献)
(2023).『東京バレエ団『かぐや姫』全3幕 世界初演公演 公演 プログラム』.公共財団法人日本舞台芸術振興会

追分日出子著(2016).『孤独な祝祭 佐々木忠次 バレエとオペラで世界と戦った日本人』.株式会社文藝春秋

金森穣(2023).『闘う舞踊団』.夕書房

(参考ウェブサイト)
『東京バレエ団『かぐや姫』全3幕 世界初演 公演サイト』.公共財団法人日本舞台芸術振興会
https://www.nbs.or.jp/stages/2023/kaguya/
(2023年10月25日閲覧)

『金森穣、新作『かぐや姫』を語る(前編)』.公共財団法人日本舞台芸術振興会.2021年7月7日
https://www.nbs.or.jp/webmagazine/articles/20210707-01.html
(2023年10月25日閲覧)

『金森穣、新作『かぐや姫』を語る(後編)』.公共財団法人日本舞台芸術振興会.2021年7月21日
https://www.nbs.or.jp/webmagazine/articles/20210721-01.html
(2023年10月25日閲覧)


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