ティク・ナット・ハンを読み直したら
このごろ思う、生きてみて良かったなーと。
『生きてきて』ではなく『生きてみて』なのは、途中放棄しようとした時があるから。
人生は辛く苦しく悲しいものでしかなかった子供が、自らの人生をリセットしようとし、生きながらえ、それでもやっぱり人生は辛く苦しく悲しいものだった大人が、なんとか生きてみた。
生きてみたら、いつしか生きてみて良かったと思えるようになっていた。
子供の頃、漫画に救われ、そして本が救いになった。大人になってたくさんの本を乱読した。
そんな途中で出会ったのがティク・ナット・ハンの本。偶然、本屋さんで見つけたもの。今年の初めから久しぶりに読み直した。
読むだけで心が穏やかになる。
そして思い出した。好きな文章を。そうだったよね。
『生けるブッダ、生けるキリスト』という本の中にある。
「・・・私たちひとりひとりがマインドフルネスのうちに生きていれば、この一瞬一瞬が新しい甦りの瞬(とき)と気づくはずです。・・・ひとりひとりの誕生がいかにかけがえのないものかを告げ知らせる使者になりたいと、私は心から思うのです。」
これを読んだとき、私もそんな使者になりたいと思った。
生きる意味がないと思っていた自分が、そう思えた。
だから、そうなりたい。
それは母との約束でもある。
「・・・花は、ここに現れる前に、既に別のかたちで存在していました。雲や陽光であったり、種子や土壌、そのほかのいろいろなかたちで、既にここにあったのです。・・・この花の誕生日と一般に言われているものは、この花が花として姿を現したとき、再顕現したときです。この花は初めからここに、花以外のいろいろなかたちで在ったのです。花はここで再顕現の努力をしたのです。・・・その花がそこに顕現することを止めたとき、その花は枯れた(死)と言います。しかしこれも正確な表現ではないのです。この花という構成要素が堆肥や土壌といった別の要素にかわったというだけのことなのです。・・・」
「ある日私は一枚の枯葉を踏みかけて、その一枚の葉の中に時を超えた究極の相(すがた)を見ました。その枯葉はいま、命を終えて無に帰ろうとしているのではなく、湿った土壌に溶け込んで、次の春に形を変えて、ふたたび木のなかに生まれ変わろうとしているのが見えたのです。私はにっこりと微笑んで『おまえはフリをしているのだね』とつぶやきました。この木の葉に限らず全てのものが生まれたり死んだりするフリをしているのです。」
私の家の小さな庭では、父が植えた水仙が毎年、春に花を咲かせる。
父が死んでもう何年も経つのに、毎年毎年、花を咲かせる。
咲き終わって、花がしおれ、精いっぱい最後の光合成をし終えたら、その残された葉も役目を終えて、いつしか姿が見えなくなる。
そこには庭の土があるばかり。
でも、その土の中で、乾ききった球根のそのなかで、次の顕現のための努力をして、やがて時を知り地中に根を伸ばし、芽を天に伸ばす。
目に見えなくても、居るんだよね。
魂も。
居なくなったようにみえても森羅万象に溶け込んで、宇宙に溶け込んで、在るんだよね。
何で自分は生まれたんだろう。
生きる意味があるんだろうか。
子供の頃からそう思っていた。
いろんな理由が知りたかった。
命、魂、運命、人間、宇宙・・・
苦労だけして、病気になって、死んでいった母が、私を生み育てるために生きたのだとしたら、私は母との約束を果たさないといけないはず。
あの時死ななかったことに理由なんかないんだ。
最初から死なないで生きてみる予定だったんだ。きっと。
生きてみて、分かった。
ひとりひとりの誕生がいかにかけがえがないかということに。
だから、私もティク・ナット・ハンの言葉を真似してー
それをの告げ知らせる使者になりたいな。と、言おう。
世界が平和であるように、みんなが幸せであるように、
みんな、ひとりひとりの誕生が素晴らしいんだってことを述べ伝える、告げ知らせる使者になれたらいいな。
今まで生きてみて、そう思うから。
新しい時代の始まり
2021年の初めに思った、記録として。