
有名人・マスメディアの光と影:社会学・哲学的考察〜part1
トップ画像の女の子は、米国ハリウッドで近年最も注目されている歌手ビリー・アイリッシュだ。
今年は、「007 ノータイムトウダイ」の主題歌やナイキのメガヒット定番スニーカーであるエアジョーダン1とのコラボが発表されている。
まさに飛ぶ鳥を落とす勢いの彼女だが、時々、「何言ってんだコイツ」となることや、
政治的な内容や宗教っぽいことなどを発言する
アウトローな一面もある。
ちょっと刺激的すぎて日本だと受け入れられないだろう。
闇ファッションとかメンヘラとか地雷とかまだかわいいものだ。
ただし、マスメディアにとっては
アウトローだったり、
頭のおかしい人は
揚げ足を取るのもってこい。
そのため、基本的に鬱になる人も多い。
何も日本人がメンタルが弱く例外というわけではなく、アメリカでも同様のことは起きている。
とはいえ、マスメディアが一概に悪いとも言えない。
社会的な生け贄をでっち上げる一方で、彼らのセーフティネットもマスメディアが築き上げているからである。
有名になる芸能人は大抵普通の人ではない。
彼らの生息地は残念ながら、阿鼻歓喜や怒号、拍手の対象となるスポットライトのさす舞台の上しかない。
それは、彼らの卓越した能力と承認欲求からそうならざるを得なくなるのだ。
ある日突然持ち上げられ、そして忘れ去られ、落ちぶれた末に運が良ければカムバックを果たす。
この一連のエコシステムを支えるのがマスメディアだ。
スタートアップでいうところのVCやテッククランチの役割を果たす。
売れた大御所に見いだされるパターンはそれでいうとエンジェル投資家だ。
となると、大抵スポットライトに当てられる人物は何かしらの能力と問題を抱えており、絶頂期と絶望感の狭間をジェットコースターで絶え間なく行き来することになる。
これは舞台に上げられた一人の芸能人が後天的にそのような人格が操作されるのか、それとも先天的にそのような人物が舞台に上げられているのかというアキレスと亀の問題が生じる。
こう考えると、有名人になることは不幸なのか、それとも不幸な人が有名人になることを選ぶのかという命題が浮かび上がる。
この命題の考察を次回してみたい。