
読書感想文:ハン・ガン「菜食主義者」
ノーベル文学賞を受賞したハン・ガン氏の「菜食主義者」の英語版を読みました。Deborah Smithという方が翻訳したものです。
作品の内容に入る前に、少し英語の文体について語らせて頂きたいのですが、このDeborah Smithという方の翻訳が素晴らしくて、とても勉強になると感じました。あっさりとした、読みやすい英文で書かれていながら、原文の複雑さや、エレガンスを失わないようにしていることが伺えました(私は韓国語は読めないので、推測でしかないのですが)。私は以前、三島由紀夫の「金閣寺」の英語版を読んだこともあるのですが、その際にも同じことを感じました。
例えば、「金閣寺」の「幼時から父は、私によく、金閣寺のことを語った」という最初の一文は、Ivan Morrisの翻訳によると、"Even since my childhood, Father had often spoken to me about the Golden Temple"となっています。これを読んだとき、「プロの翻訳家も、意外と単純な語彙を使うのだな」と思ったものでしたが、「菜食主義者」の英語版に関しても、似た感想を抱きました。私は英語のネイティブスピーカーではないので、古典作品などを原文で読むと理解できない箇所がどうしても出てきてしまうのですが、「菜食主義者」の英語版に関しては、洋書を読んでいるときに私が感じがちなストレスを感じることなく、スムーズに読み終えることができました。
さて、ここからは作品の内容について書いていきたいのですが、若干ネタバレになるかもしれないことを、ご容赦ください。この物語の主人公はヨンヘという女性で、彼女は主婦として満ち足りた生活を送っていたにも関わらず、ある日突如として、まったく肉を食べないようになってしまいます。この彼女の変化により、周囲の人々の生活も大きな変化を強いられ、色々なことが崩壊に向かっていきます。
「菜食主義者」は、「菜食主義者」、「蒙古斑」、「木の花火」の三つの中編から構成されており、それぞれの中編が一つの完結した作品として、ヨンヘの家族を取り巻く同じ事象を、異なる人物の視点から描いています。それぞれの人物が心理的な問題を抱えていて、それでもヨンヘが「正常」な間はそれらの問題が表面化することはなかったのですが、ヨンヘの菜食主義者への転向という奇行のために、それらの問題が浮彫になり、家族関係が崩壊に向かっていきます。
作品の終盤でヨンヘの姉が、「ヨンヘが狂っていなかったら、狂っていたのは自分だったかもしれない」というようなことを考えるシーンがあるのですが、この作品は、「親子の葛藤」、「孤独」、「女性の社会進出による子育ての難しさ」、「夫婦間の冷え切った感情」など、現代の韓国社会が抱える病理を、克明に描写した側面もあるのではないかと感じました。
海外文学を読む醍醐味の一つとして、その国の文化への理解を深めることができるという点があるように思うのですが、今回初めて韓国人作家の本を読んでみて、日本社会と韓国社会の類似点や相違点についても考えさせられました。例えば作中でヨンヘが父親から引っぱたかれるシーンがあるのですが、さすがに日本では大の大人になった娘に対して父親がこんなことをするとは、考えづらいですね。
それから、これは私の個人的な考えに過ぎないのですが、この作品では一貫して菜食主義を病的なものとして扱っていて(ヨンヘは精神病院に入院させられます)、現代の、一部の界隈の行き過ぎたビーガニズムや動物愛護運動に対する批判も、一つのテーマなのではないか、という気がしました。
ヨンヘが菜食主義者に転向したのは彼女の「夢」が原因である、ということ以上は作中で語られないのですが、彼女は幼少時代から、生に対する執着が薄かったことを伺わせる描写もあり、「肉を食べないことは、遠回しに生を拒絶している」というメッセージも、読み取ることができるように感じたのです。
そもそも、韓国社会の病理や人間が抱える狂気を描くだけならば、菜食主義をテーマに選ぶ必要性はなかったはずです。そこをあえてこのテーマを選んでいるということは、そこに何かメッセージ性があるように、私には思えるのです。
様々な学説や意見があるようですが、人間は普通に考えたら雑食性の霊長類であり、肉食を完全に拒絶することは、不自然だと言えます。そして、人間が肉を食べるという行為は、他の動物の犠牲があって初めて成り立つ行為であり、そこには私たちが生き物として抱える罪深さが内包されていると同時に、私たちが生物として、弱肉強食の自然界の中で生きているという、生命力の象徴でもあるように思えるのです。
ヨンヘが肉食を拒絶したことで彼女の家族を大きく巻き込んで破滅に向かっていく様は、ハン・ガン氏の、行き過ぎたビーガニズムに対する違和感を反映しているように、私には思えたのです。
もちろんこれは私見に過ぎず、小説には、様々な読み方があるかと思います。他にもこの作品を読んだ方がおられましたら、ぜひ気軽にコメントをして頂いて、意見交流をさせて頂ければ、と思います。長文にお付き合い頂き、ありがとうございました。