読書雑感 | スペキュレイティブ・フィクションという言葉をたどっって
「SF」という言葉を二分するのに、わたしたち多数が考えるところの「サイエンス・フィクション」の他に「スペキュレイティブ・フィクション」というものがある。
わたしはこの言葉をごく最近知ったのであるが、いわゆるSFのジャンルというよりSF作品を創作するにあたっての思想的な色が強い言葉ではないかと理解している。
ちなみにwikiなどで調べる限り、「スペキュレイティブ・フィクション」は、日本語では空想科学に哲学的要素を加えたものとして「思弁小説」と位置づけているらしい。
「思弁」という言葉をあれこれ考えると、頭がこんがらがりそうなので、わたしの中では科学的な見地よりも、とりあえず独自の哲学(世界観)をもって進行する小説としておこう。
ということで名だたる近年の作家の中で、この「スペキュレイティブ・フィクション」を提唱している一人にハーラン・エリスンという人がいる。
これまで色々なSF小説を蒐集する中で、エリスンは名前すらまったく知らなく、最近になってからとある紹介動画を拝見し、漸く知った名前というところである。
作品を遡ると、わたしたち世代がよく知るところの日本映画のタイトルによく似た「世界の中心で愛を叫んだけもの」という作品集他、さまざまなSFアンソロジーものにも軒をつらねている。
一見タイトルがへんてこにも思えるのであるが、読んでみるときっとそれが意味するところが解るに違いないだろう。
そう言っておきながら、この表題作はなかなか理解を深めるのに一回では難しそうである。
エリスンをはじめとするSF小説を、自身の言葉で明確にお話してくれた画面の中の方もそう仰っていた。
ではまえがきはというと、これがまた一遍の詩のような読み応えがあり、本題に入る前に気圧されたものである。
昨日今日から手始めに、この作品集の末尾で映画にもなっている「少年と犬」をヴォネガットと併読のつもりで読み始めている。