生贄の門/感想
新潮文庫のXで『「このホラーがすごい2024年度ベスト20ランキング海外編」で2位を獲得した、スペインのスティーブン・キングが放つミステリーとフォークホラーが融合した代表作』という投稿は、私の心を掴んで離さなかった。カバー装画も禍々しいのに何か訴えてくるものがあり見入ってしまう。
フォークホラーという言葉にはこの時初めて触れたのだが、
ということらしい。なるほど、その土地に纏わる儀式や呪いを扱ったミステリーというわけだ。舞台はスペイン、ガリシア地方の小村フォスコ。主人公はマドリードの治安警備隊視覚捜査中央部隊というエリート集団に属する一児の母ラケル。そしてその息子は末期の脳腫瘍に身体を蝕まれたまだ9歳なのに聡明で愛らしいフリアン。
なんとなく、この時点で藁にも縋る思いで息子の病の治療に奔走する母の姿が目に浮かぶ。そして縋った先に待ち受けるのが…という展開だ。『生贄の門』というタイトルからはその息子が差し出される様すら想像できる。が、この待ち受けていたものの正体が何なのかが気になり、項を捲った。
以下読んだ人向け。
読了後、私はこの一冊を好きだなと率直に思った。
捜査官ならではの行動力のある人物達
一児の母という主人公のラケル。その子どもは不治の病であり、夫の協力を仰げない状況下で仕事を投げ打ってでも出来ることに邁進する姿勢には共感しかない。
私自身も同じく一児の母であり親近感が湧いた。自分ならばどうしたかを考えてもやはり同じ行動を取ったように思う。非科学的な力に頼ろうとする自分をどうかしていると冷静に見つめつつも、一縷の望みをそこに託すしかない追い込まれた状況を悲観しすぎず行動していくフットワークの軽さは尊敬にも値する。
同僚のフアン・ビラノバは体格こそ誇張されているが、冷静で且つ行動力があり、何度もラケルを側で支えている。この人物は絶えず主人公の軌道修正を促し、適材適所で力を発揮した。フアンの存在は恐怖と隣り合わせのラケルを常に和ませ、また励ましている。フリアンにとっても欠かせない存在だった事は変わらないが、結末を知ってもなお、もし生きてラケルの側にいたなら(もちろんフリアンの病気が別の形で寛解するという前提のもと)どんなに良い父親になっただろうと想像せずにはいられない。私はこのビラノバという捜査官を終始好きだった。
どこか怪しげな人物達
ノゲイラ軍曹もアガタもどこか胡散臭さと奇妙さを感じていた。消えたラモーナは言わずもがなだが、見ず知らずの館の婦人が提供する料理などを何の違和感もなしに口にしていた様子から、よほど「いいおばあちゃん」という安心感を醸し出していたのだろう…
ラケルは度々鼻血を出しているが、チョウセンアサガオの毒を知らず知らずに摂取していたと知ってゾッとした。他人の好意に疑いの目を向けるのは骨の折れることだが、なぜそこまで好意的なのかについてこのアガタという人物にどこかずっと疑心暗鬼でもあった。捜査官といえども人、外に執着するものがあれば内への危機感は和らぐのかもしれない。その心理を突いたとすれば、それこそ恐ろしい話だ。
消えた資料と共にメンデスの名が上がった時、この元捜査官と共に霧消していった真相の側で誰かが操作している感じがした。あってはならないが、よくあることとして上層部がもみ消す、というのは想像に難くない。この時ノゲイラもグルだろうと思えたのが正直なところ。
文化人類学者の言葉でベールが剥がされる
ずっと闇の中にあったこの話の大枠はラケルがサンタロに出会うことで大きく動いたように思う、大体7割ぐらいページを捲った頃だ。プエルタやメンヒル、生から死への象徴と続く話はあまりに現実離れしていてどこを参考にしていいのかわからない。だが人目につかないパワースポットで今もなお信仰され続けるケルト神話のようなものの存在、そしてそれらが位置する場所にこの頃には一読者である自分であっても既視感を覚える。ラケェェェルとこだました不気味な地下の声の主は一体誰なのか。オカルトが非現実味を強調し、敢えて小説だと読者に訴えているのだろうか。それとも…
奪い、そして与えるプエルタと十二年後
フアンの心臓を生贄に、フリアンは見事病から立ち直りラケルは穏やかな日常を取り戻した。文字通り奪い、そして与えられたわけだがそんな事は可能なのだろうか…
おそらく冥界へ繋がるとされる地下の魔の囁きは日に日に強くなる。来る12年後、フリアン、そしてラケルはラモーナを筆頭にその一族が続けたこの儀式の次なる信仰者としてまた身寄りの無い命を生贄にプエルタを閉じようと動くのだろうか。そして与えられ、また長い命を生き続けることになるのだろうか…
冥界、生と死、魔、といった象徴がそもそも奪うのみならず与える、という点が私には新鮮だった。悪魔というモチーフはひたすら奪うというイメージが強い。それ故かラケルが図書館で漁った資料に見た何百年も生きる者達の存在は当初うまく飲み込む事が出来なかった。その様な事が可能なのかどうかという一点において私には否定的な眼しか持てなかった為だ。
この話はきっと全てがフィクション(作り話)なのだと締め括ったその時、著者の謝辞を読んで度肝を抜かれた。
プエルタは存在した。著者もさすがに人身御供に出会うことは無かったそうだが、この【建設した人々とほぼ変わらぬやり方で、今も利用され続けているのである】という一文の中身がものすごく気にかかる。
信仰というのは悪しきものであれ、良きものであれ、そこに人がいる限り残る様な気もしないでもない。信仰した者にある種のカリスマ性があればそれを広める、または守っていくことも可能ではないだろうか。
民謡、伝説…受け継がれるという事象そのものに恐怖を感じさせた一冊だった。まるで一本のホラー映画を見ている様な感覚でスラスラと読めたのもこの一冊の魅力かもしれない。
ロウレイロの「最後の乗客」の方も気になってきた。