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親といるとなぜか苦しい: 「親という呪い」から自由になる方法/感想

親という呪い、恐ろしい響きだ。しかし『親といるとなぜか苦しい』とは誠に切実な訴えであり、昨今で定着しつつある親ガチャや毒親といった言葉が示すものから、表面的にはもっと平穏そうな「一般的な」という仮面をかぶった謎にモヤモヤする親子関係に何年も苦しめられてきた、または現在進行形で苦しんでいる人たちがいることを示している。

◆家庭環境は平凡です。だけど親が嫌いです
◆「本当にやりたいこと」が見つからない…
◆私は家族の落ちこぼれ?人生がむなしいです
◆恋愛が苦手。どうしていいかわかりません

こうした「生きづらさ」を抱える人は、
「自分がヘンなのではないか」と悩むことが多いでしょう。
でも、その原因が子ども時代にあるとしたら…?

見た目は大人だが、精神年齢は子どものままの親が子どもを苦しめる。
愛したいのに愛せない親を持つ人が「心の重荷」を降ろす方法

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私がこの本の紹介を読んでパンチを食らった気分になったのはこの冒頭の「家庭環境は平凡です。だけど親が嫌いです」という一文である。平凡だが嫌い。一般的には中の上または下くらいの暮らしぶりという自覚があるのだろうか。

勿論好き嫌いやウマが合う合わないは人それぞれだと思う。しかしこの一言にはそれ以上の何か根深いものを感じさせられた。監訳に岡田尊司氏の名が並んでいるのも相まってこの本を手に取るキッカケとなった。


以下私目線でのまとめ。


まず大前提として、親に(精神的に)欠陥があるということを見つめる、というのは子どもにとってとてもショックなことだ。

しかし同時に今抱える何らかの問題がそれを原因としているかもしれないと考えることはその問いに一筋の光を与える。モヤの出所が分かることで対処がしやすくなるかもしれないのだ。

早く仕事に就く/性に対し積極的になる/早々に結婚する/軍隊に入隊する

精神的に未熟な親に育てられた子どもはまだ若いうちからこのように進んで大人の仲間入りをすることが多いらしい。(つまり上記の様な傾向がある。)早いうちから大人の相手をすることを余儀なくされたことにより精神的な時間の流れは同年代よりも幾分早く進んでいるのかもしれない。

では精神的に未熟な親とはいったいどういった状態の親を指すのだろうか。

●精神的に未熟とは

・感情にあまり関心がなく、自分の感情を表現する言葉もとぼしいので、たいていの場合、精神的なニーズを言葉ではなく態度で表す(情動感染)

情動感染は、乳幼児が自分の欲求を伝える方法でもある。何か気に入らないことがあれば、ひたすら泣いたりぐずったりして世話をしてくれる人にそれをわかってもらおうとする。

(ハットフィールド、ラプソン、リー、2007年)

ほかの人の気持ちなど理解する必要はないと考えている
感情的な反応や無神経な反応をしておいて、「正直に思ったことを言っているだけ」だとか「自分を変える事なんてできない」などと正当化する

自分の要求をはっきり伝えずに、意地悪く自分の思いを察してくれというプレッシャーをかける

”子どもに”自分を理解してもらい、ミラーリングしてもらいたいと思っている
(心理学的にみて大人のミラーリングが正確にできる子どもなどいない)

ほとんどのタイプが苛立ちに対する耐性が低く、自分の望みをかなえたければ、言葉でのコミュニケーションよりも精神的な駆け引きをしたり、
相手を脅したりする

子どもが怒りの感情を示すと、まず間違いなく子どもを罰する

といった傾向を示す親のことをさす。

またそうした親もおおよそ4つのタイプ毎に分かれるらしい

1「感情的な親」
感情のままに行動し、過干渉かと思えば急に突き放したりする。不安定で、突拍子もないことをしがちだ。不安に圧倒されると、他者を利用して自分を落ち着かせる、些細なことで大騒ぎし、相手を、自分を助けてくれるか見捨てるかのいずれかとしてみる。

2「がむしゃらな親」
異様に目的志向が強く、やたらと忙しい。他者を含め、あらゆるものを完璧にしようとせずにはいられない。しっかりと時間をとって、子どもの心にきちんと寄り添うことはしないのに、子どもの人生のこととなると、コントロールしたり口出ししたりする

3「受け身の親」
放任主義で、不安をかき立てられるようなことには一切かかわらない。有害性は低いが、独自の弊害をおよぼす。支配的な相手には一も二もなく従い、虐待やネグレクトもみてみぬふりをする。問題を避けたり黙認したりすることで切り抜けているのだ

4「拒む親」
そもそもなぜ家庭を持ったのかと思うような行動をする。精神的な親密さをよしとせず、子どもにわずらわされるのを露骨にいやがる。他者の欲求への耐性はほぼ皆無。彼らにとっての交流とは、命令し、怒鳴りつけ、距離を置くことだ。多少おだやかなタイプであれば、家族ごっこはするかもしれないが、あくまでも表面的だ。もっぱら自分の殻にこもって好きなことをしたがる。

なんだか呆然としてしまう内容である。

しかし該当する内容が横断的であったりパッとした印象を得られない場合もあるかもしれない。そこで以下に具体的な例を載せる。

子どもが親であるかのように子どもに接し、子どもに気を使ってもらい、安心させてもらうことを期待する。こうした親は役割を逆転させ、たとえ大人が解決すべき問題であっても、躊躇なく打ち明けられるような親友の役割を子どもに望むことがある。自分の結婚の問題を子どもと話し合う親などは、こうした例といえるだろう。

親は外在化タイプの兄弟をえこひいきすることが多く、わがままな兄弟を叱らない。こうした家庭では、内在化タイプの子どもが不公平だと不満を口にしても、たいていの場合、親に黙らされてしまう。「兄弟とはうまくやりなさい」、あるいは「兄弟の問題をあなたが理解してあげなさい」と言われる。

親にしてみれば、外在化タイプの子どもを怒らせればなにひとついいことはない、だから内在化タイプの子どもに、兄弟の欲求を満たしてやれと問題を押しつけるのだ。

親を兄弟の様に感じてきた人、また兄弟の中でも自分ばかり理不尽な対応を求められたと感じる人は「未熟な親」に育てられたのかもしれない。私個人は後者に該当する様に思えた。不愉快なエピソードがこの例に酷似しているように思われたのだ。

では逆に未熟ではない親とはどういう状態を示す親なのだろうか。

●精神的に成熟しているとは


・ボーエン(1978)
他者と深い精神的なつながりを保ちながら、客観的かつ概念的に考えることができることをいう。精神的に成熟した人は、自分の判断で動くことができる。深い愛着を持ち、その独自性と愛着の両方を生活に自然にとり入れている。自分の望みをまっすぐに追い求めるが、そのためにほかの人を利用することはない。自分が育ってきた家庭の人間関係を引きずることなく、自分なりの人生を築こうとする

・コフート(1985)
じゅうぶんに発達した自我

・エリクソン(1963)
(十分に発達した自我と)アイデンティティがあり、近しい人たちとの関係を大切にする

・ゴールマン(1995)
相手の気持ちにしっかりと寄り添うことができ、衝動も抑えられ、精神的な知性もある。心がおだやかで、自分の気持ちに正直でいられるし、ほかの人ともうまくやっていける

・ボーエン(1978)
ほかの人の精神生活にも関心があり、彼らと精神的に親密に心を通わせあっていて、それを楽しんでもいる。問題があれば、相手と直接やりとりをして、食いちがいをとりのぞいていく

・ヴァイラント(2000)
意識して自分の考えや気持ちを処理しながら、ストレスにも現実的に、前向きに立ち向かっていく。必要なら自分の感情をコントロールし、未来を見越して対策を講じ、現実に対応し、相手の心に寄り添い、ユーモアを交えながら、難しい状況を和ませ、相手との絆を強めることもできる

・シーバート(1996)
客観的であろうとし、自分をよくわかっていて、欠点も認めている

●これから出来る心構え

研究によれば、その人の身に何がおこったかよりも、それをどう処理するかのほうが大事だという。安定した愛着を持った子どもを育てる親の特徴を調べたところ、自発的に自分の子ども時代のことを思い出して語ることが多いという(メイン、カプラン、キャシディ、1985年)

中には、子どものころにとてもつらい経験をしてきたが、自身の子どもとの関係は安定しているという人もいた。そういう親は、じっくりと時間をかけて自分の経験について考え、自分の中できちんと消化してきたので、過去の楽しい思い出もつらい思い出もありのままに受け止めていたのだった。

私は自分が今どのような状態で、またどのように育ってきたかを見つめ返し、腑に落ちるまで葛藤や納得を繰り返すことは自分が親となって負の遺産を子に引き継がないためには必要な工程だと考えている。自分自身の思考や癖が無意識に子どもに継がれる可能性は大きいためだ。

この過程は親をバッシングすることとは違う。親は親なりに精一杯自分という子どもを育てるべく努力したのかもしれない。

勿論そういった努力を放棄してきた親もいるだろうから一概には言えない。しかし壁を築くことに全精力を傾け、気持ちを正直に話したり、処理したりすることを避けることで心が傷つけられることを親自身が子どもの頃から身に着けてきた結果かもしれないという視点を持つことは一つ理解の一助になるやもしれない。

親にしてもらったことに感謝し、尊敬するのはいいが、親の弱さをみてみぬふりをする必要はない。2章で論じてきたように、子どもの物理的、経済的欲求を満たすことと、精神的な欲求を満たすことは同じではない。

自分の中の「内なる子ども」は親が変わることを期待してしまうが、我々がすべきことは大人として自分の考えをしっかりと持ち、独立した一人の大人として親と付き合うことだと著者は述べる。

自分の人生をあきらめてまで、親の問題を背負ってやるのは子どものすることではない。

血が繋がっていようと親は親、子は子。
別個の存在であると、背中を押してくれる。


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