「書いてよい真実」を見極めるということ
もう20年以上前のことだが、某カメラチェーン店の社内報制作に約10年携わっていた。その会社が創業50周年を迎えるということで、社内報の中で「社史」のようなものを連載することになった。
単に年表のような「出来事」を綴っていくだけでは面白くないので、社歴の長い人から順番に、その人が入社した当時のことを聞き、それを文章におこすことで「社史」を辿っていく、という企画だった。
第1号社員の方のことは、以前noteに書いたことがある。
この第1号社員の方からは「50年間、自分の仕事を愛し続ける」ことを学んだが、実は第2号社員の方のこともよく覚えているし、その方(Mさん)からもライターとして大切なことを教えてもらった。
穏やかな第1号社員の方とは正反対で、Mさんは厳しそうなおじさんだった。ちょっと近寄りがたい雰囲気があった。
事前に直接アポもとっていたし、本部から取材の連絡もあったはずだが、私が店を訪れると、Mさんはとても迷惑そうな顔をした。
取材のための時間をとってくれていたわけではなく、営業中の隙間時間で話を聞かなければならなかったので、それが嫌だったのかもしれない。
その頃はまだデジタルカメラはなくフィルムカメラ。写真の現像を頼みに来るお客さんは多く、Mさんはひっきりなしに来るお客さんに対応していた。ショッピングセンターの中にあったので、とにかく繁盛していた。
私は少しでもお客さんが途切れると、その隙を狙って質問をするような状況だった。
とてもやりにくかったが、それでもなんとかねばって話を聞き終え、「ではこれで記事にしますので」と挨拶をして帰ろうとすると、Mさんは私にこう言った。
「カッコいいことなんて書かなくていいから。あなたは、真実を書いてくださいよ!」
最初はびっくりしたが、あとで、「なるほど、そういうことか」と合点がいった。
そっけない態度は、照れのようなものもあったのかもしれない。あまり自分のことを良いように書かれたり目立ったりすることが苦手なタイプの人だったのだ。
「わかりました!真実を書きます!」
生意気にも、そう返事をして帰った。
が、実際に書き始めてみると、「真実」という言葉がとても重くて。
かなり悩んだ。
カッコいいエピソードもたくさんある。だけど、そこを誇張しすぎると良くない。Mさんが求めている「真実」とは何なのだろう。
自分の中で整理して仕上げるのに時間はかかったが、結果的には記事のチェックの時にMさんから「真実が書かれていたと思います」とメッセージをいただくことができた。
あのときは、本当に嬉しかった。
ただ、今でも取材記事を書いていてよく思うのだ。「真実」ってなんだろうな、と。
相手の話をバカみたいにそのまま書くことが「真実」というわけではない。
自分の話が「文字になる」ということは、人が思っている以上に影響力があり、とても怖いことだ。だから、取材の時は饒舌な人でも、実際にその話を文章にして目を通すと、
「確かに私はこう話しました。でも、やっぱりこれは書かないでほしいんです」
と言う人もいるのだ。
それが事実であればあるほど、嫌がられる場合もある。自分の言葉が文字になったのを見ると、ドキッとするのだろう。
だから、良いインタビューができて、相手が気持ちよく話せば話すほど、「書いてよい真実」を見極めることが重要になってくる。
逆に、相手が話してもいないことを「行間を読んだ」ような気になって、自分で想像して書いてしまうのも良くない。それは「嘘」だからだ。
もちろん、相手の言葉がたどたどしく、意味が伝わりにくいものであれば、それを汲んでわかりやすい言葉に変換して書くことは必要だ。それが取材ライターに必要なスキルのひとつでもある。
結局のところ、大事なのは、取材相手が「どう書いてほしいと思っているのか」を汲み取ることだと思う。
取材中、質問してネタを拾いながらも、私はずっとそのことを考えている。「この人は何をどう書かれたいのか」「この人は自分をどう見られたいのか」と。
楽しそうにおしゃべりはしてくれているけれど、この話は今のノリで出ただけで、実際には書かれたくないのではないか、とか。
きつい言い方をする人だけど、(だからこそ?)優しい自分を見せたいのではないか、とか。
偉業を成し遂げた人だけど、謙虚な人だから、あまりそこを誇張されたくないのではないか、とか。
実は本文にはあまり必要のないワードだけど、ものすごく本人が気に入っている言葉のようだから、どこかに入れられないか、とか。
最初の頃は悩むことも多かったが、私がこれまで請けてきた仕事は、取材相手に記事のチェックを直接お願いすることが多かったので、その修正を見るたびに、だんだん「書いてよい真実」を見極めることが上手くなっていった。
「書いてよい真実」を選択して文章としてまとめ上げること、それは「虚構」ともいえる。
「嘘」はダメ。かといって単なる「事実」を書けばいいわけでもない。
実は、「嘘」も「事実」も書くのは簡単で、「虚構」を書けることこそが、プロなんだと思う。
以前、そのことについても記事にしたことがある。
何度も取材を重ね、私は「書いてよい真実」を見極め、今では「虚構」を書けるようになった。取材相手からの修正もあまりない。
それでも、一番最近の記事の中でこんなチェックが入ったことがある。
何年も全国新酒鑑評会で金賞を連続受賞している酒蔵の取材で、蔵元さんが「賞をとることで、こんな小さな蔵でも全国に名前が知れたから、会場で他県の見知らぬ蔵元さんから声をかけられることもあるんですよ。『すごいですね、○○さん』って言われると嬉しくて」と話してくれた。
でも、とてもシャイな蔵元さんだったし、あまり良く書かれることを好まないのはわかったので、私としてはできるだけ控え目で客観的な表現にした。
この部分を書くかどうか、かなり迷った。嫌がるかなと思ったが、この人がやっていることは自慢をしてもいいような偉業だ。それも自分で「すごいでしょう?」と言うわけではなく、あくまでも「他人からの評価」なので、大丈夫かなと判断し、自分でGOを出した。
結果、蔵元さんがチェックで「すごいですね」を削除してきた。「声をかけられる」だけが残された。
全体を通しても修正はこの程度だったが、私はそれを見た時に、「あー、私はこんなに長くやっていて、もうわかっているつもりなのに、まだこういう判断で失敗するんだな」と思った。
私が思っているよりもっともっと、この人はシャイで謙虚だったのだ。
いや、違うな。
わかっていた。そういう人だとわかっていたけれど、たぶん「すごいですね」と私自身が書いてあげたかったのだ。その欲望に負けてしまった。
相手が何を書いてほしいのか?
この媒体では何を伝えるべきなのか?
まずこの2点が先にあって、その上で、自分の視点や想いを入れる。
わかっているのに、まず「書きたい」気持ちが先走ってしまうことが、いまだにあることにびっくりする。
だからだろうか、取材をたくさん重ねて、決して何でも事実を書けばよいわけではないとわかってから、なおさらあのMさんの言葉がよく心によみがえるのだ。
「カッコいいことなんて書かなくていいから。あなたは、真実を書いてくださいよ!」
あの記事を書いてから数年後、Mさんの訃報を聞いた。
ギロっと光る目。
近寄りがたい雰囲気。
昔気質の職人で。
でも、とても仕事に誠実で、優しい人だった。
向こうは、たった一度会っただけの小娘(当時はそうだった!)のことなんて、生きていたって覚えてないだろう。
だけど、私は忘れない。
私に「真実を書け」と言ってくれた、唯一の人だから。
私はプロである限り、「書いてよい真実」を見極めて、自分の中で物語性をもたせて、「虚構」として書き上げる。
取材相手が「書いてもらってよかった」と思ってくれるように。
また、クライアントが希望するモノを、できるだけ完璧な形で提供できるように。
20数年やっていても、まだ難しいことだけど。