写真を撮るのは好きだけれど、被写体はほぼ風景。 「人」を撮ることができない。 人に自分から近寄らないことになったのは、私が4歳の時から。 おしゃべりで人懐っこい弟が、私の入園の面談みたいなもの(引っ越し族だったので、きっと途中入園だったのかな。)で、なぜか一緒について来て、私を差し置いてしゃべりまくっていたことを後から親から聞いて、これがきっかけだと決めつけている。この出来事は、故に私の記憶にはない。 その時、自分はつまんない人間だと決めたみたいだった。 中学、高校、大
久しぶりに、悲しみではない涙が湧いてきている。 みぞおちのあたりからからだの内側をあがってくる熱と一緒に出る涙。 自分の中の塊が溶けた瞬間。 子どもの頃の日曜日の約束は、実現したことはなかった。 家族でどこかに行く約束は、父の「やっぱり行かない」のひとことで終了。 その癖は、末の弟に引き継がれ、父が亡くなった後に彼が母と二人暮らしをしていた間、母に対して存分に発揮されることとなり、私たち家族には、家族旅行の思い出などはない。 そういう自分も随分人に空約束をしてきた。特に
下を見ると、すーっと引き込まれそうになる。 ふと、このまま向こうの世界に行ってもいいかな、と。 あちらの世界は、この瞬間に、そのままスライド式になっていて、 いつでも気が向いたら行けるくらいのところなんじゃないかな。 打ちひしがれることも、苦しむことも、悲しみも、そんなことではなくても 行けるところのような気がする。 たまに、「魔」がそばまでやってくることがないわけではなくて、 ただ最近、思っている以上にやられている自分に気が付いて、 気が付いたのは、このままここからいなく
世界が、巨大なチェスボードのように思えることがある。 駒を動かすのは、ひとり。 誰とも対戦していない。 ただ、駒を、持ち上げたり、動かす。 無意味に、ランダムに見えて、戦略的なのかもしれない。 最近、友人を亡くした。 普段から会うわけではなかったし、連絡をとったりはしていなかったけれど、彼女の存在感は確かにあった。ふとした時に彼女のことを思い出したり、夢に出てきたりしていたから。 彼女が亡くなったという知らせを受けた時、空から突き出た大きな手が、彼女をつまんで持ち上げて