塊が溶ける
久しぶりに、悲しみではない涙が湧いてきている。
みぞおちのあたりからからだの内側をあがってくる熱と一緒に出る涙。
自分の中の塊が溶けた瞬間。
子どもの頃の日曜日の約束は、実現したことはなかった。
家族でどこかに行く約束は、父の「やっぱり行かない」のひとことで終了。
その癖は、末の弟に引き継がれ、父が亡くなった後に彼が母と二人暮らしをしていた間、母に対して存分に発揮されることとなり、私たち家族には、家族旅行の思い出などはない。
そういう自分も随分人に空約束をしてきた。特に乗り気でもないのに、というか、自分が特に乗り気ではないこと自体をあまり分かってなくて、行けるだろう、出来るだろうくらいに考えて、生返事をすることになり、結局、ドタキャンしたり、ひどい時には、同じ人に2度も待ちぼうけを喰らわせたこともあった。
空約束をするのは、その人にいい顔をしたい、嫌われたくない、という心の現れだということに気づいてからは、出来ない約束は一切しなくなったので、自分も楽になったし、人間関係もうまく整理できてきた。
ところが、この魔のクセは、同居人の夫に対して発動されることがたまーにあって、久しぶりに今朝ほど、暴発しました。
事の発端は、家の中に野菜を苗を育てるスペースを作ろうと、DIYがプロ並みのエンジニアなので、棚やグロウライトを吊るす枠とか色々作り始めまたのです。
ただし、家の中のガーデンスペース作りにはさほど興味はなく(家が狭くなるし、窓から見えていた空がかなり隠れてしまうので)、でも、ハーブや花を植えたいと口走った手前、それと、変なものになるのは嫌なので、カラーコーディネートとかはしとかないとという程度で臨んでいるので、お互いの温度差は開きっぱなしの状態です。
昨夜、「明日、棚や枠の色を決めよう。ペンキを買いにホームセンターに行きたいけど、行ける?」と、決して無理強いしない優しい誘い方で、私も、1時間くらいならと思って空返事をしてしまったら、案の定、今朝になって、ホームセンターに行く気分でも、ずらっとお店の棚に並ぶペンキの缶を見つめる気分でもなく、いざ自転車で出かけてみたものの、思った以上に風が冷たくて薄着過ぎた私は凍える気分になり、そもそもホームセンターが好きじゃないから、もうじわじわと機嫌は悪くなるし、寒いし、楽しくないし。でも頑張ってホームセンターのペンキ棚の前まで行ったけど、ツヤだしとか、ニスとか、油性とか水性とか、何とか用とか、ブラウンとこげ茶とチョコレートとか、何を探せばいいのか分からないーっと不機嫌マックスになり、もう帰る、と言い放つ始末。
そして、さっさと一人で家に帰った私は、本当に寒かったので、着替えて、ベランダに出て太陽の光の中で座り込んだ途端、涙があふれてきたのでした。みぞおちのあたりから熱くあふれてくる涙。
あー、溶けた。
私は、自分の内側のどこかにいくつか塊を飼っていて、それは、自分を守る目的で使う道具として後生大事に抱えています。怒りの塊は、怒りを他人に向けて自分を正当化するために投げつけるボールで、悲しみの塊は、自分を悲劇のヒロインに仕立て上げて現実逃避をするためのおまじない。
こういうことを書くと、スピ系や心理系の人たちが寄ってくるのですが、それは違います。肩が凝ってもんでもらってもその時だけ楽になるのと同じで、人から授かるありがたそうなものは効いたように思うけど、それは表面の下の少し深いところに届くだけで、本当の深いところに人が手を差し伸べることはできないのです。
なぜならば、ひとりひとりの人生はその人だけのものだから、その人の中で何があって、何を感じて、何をやり残したか、何がほどけていないのか、それはその人にしか分からないものだからです。
でも、よくしたもので、些細な出来事が起こるのです。自分を変えたり、本当に楽になる時には、些細なことが起きて、私の場合はみぞおちあたりが反応します。キューっと締め付けられるような、極度に緊張した時のような感覚と、同時に溢れてくる涙が教えてくれます。
それに気づくまでには、状況は違えど何度も同じ様な感覚を経験させられて、その内気づいて、最後に、ドンっと自分の感情が動く瞬間が来て、全部溶ける。塊がひとつなくなります。
それが起こるとき、大概、お天気がいいのです。
からだが自然と太陽の光の中に向かうのです。
暖かい太陽の光を浴びて、涙があふれて、気持ちが楽になって、笑えるようになって。
きっとタイミングっていうものはあるんだろうな。それは自分では決められないけど、自分の中の暗い部分や、蓋をしたいものがあるなら、それに気づいてどうにかしたいと思う気持ちを持っていれば、ある日、溶けます。
生きてるっていいな、と思う瞬間でもある。
今日もいい天気です。