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生きているという自由

世界が、巨大なチェスボードのように思えることがある。

駒を動かすのは、ひとり。
誰とも対戦していない。
ただ、駒を、持ち上げたり、動かす。
無意味に、ランダムに見えて、戦略的なのかもしれない。

チェス


最近、友人を亡くした。
普段から会うわけではなかったし、連絡をとったりはしていなかったけれど、彼女の存在感は確かにあった。ふとした時に彼女のことを思い出したり、夢に出てきたりしていたから。

彼女が亡くなったという知らせを受けた時、空から突き出た大きな手が、彼女をつまんで持ち上げて、地球の外に出しているイメージが真っ先に浮かんだ。退場の瞬間。

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亡くなった人の連絡先をまだ残していることってあると思うけど、弟の名前は、携帯の電話帳リストにまだ残っている。残しているわけではなく、消してないだけ。かけようと思えばかけられる。かけたことはないけれど。私が大学に入るために家を出て以来、不義理な私のせいでほとんど会うことがなくなってしまい、彼に子どもが出来てから亡くなるまでの短い期間に、病院に行くことで会う機会が増えていたというありさま。

そして、人が息を引き取る瞬間というものを、自分の弟の姿で経験することになるとは思いもせず、その瞬間、悲しみや心残り、生後6か月の赤ちゃんを置いていなくなってしまう憤りなんか何も感じず、ただひたすら、彼の呼吸が細く長くなっていくのを見ていた。もう息をしていない瞬間ははっきりと分かるもので、ものすごく静かだった。あんな静けさはそこにしかない。息をひきとる、というのは、連れていく誰かが、亡くなった人のからだと魂をそっちに引き取ってくれることなんだ、きっと。

あー、持っていかれたね。

はい、もう終わりです。連れていきますね~。
はい、分かりました。よろしくお願い致します。

そんな感じ。

不思議と悲しいとは思わなかった。泣きもしなかった。

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この世界には、私たちが生きている世界と、死んでみないと分からない世界があって、生きてるうちは死んでないから確認することはできないけど(たまに、出来る人がいるみたいだけど)、そのふたつの場所は、なんら変わることのない同じ場所なんじゃないかと、ふとそんなふうに思う。

ただひとつだけ違うのは、いつどこで、は、誰にも分らないということ。
ただ、それを知っている何かがいるんでしょう。
見えないけど感じる存在。
見えない手をすーっと伸ばして、順番が来た誰かを丁寧に引き取っていく。

光


つまみあげられた駒は脇に置かれて、ふたたびボードゲームの盤に戻るプランもあるにはあるみたいだけど、どっちにしても、いつどこで、は私たちの知ることではないし、だからなのかな、いつまでも自分のことが良く分からないのは(笑)。

ついでに言うと、私が25歳の時に、父が自分で自分をこの世界から切りはなしたんだけど、泣いたり喚いたり、悲しみが襲ってくることはなかった。

頼まれたから、やるよと生返事をして結局やらなかった新聞の切り抜き作業や、父がいつも使っていた耳かきを私が失くしたのに、それを探している父を目にしながら何も言ってあげなかったこととか、雪がふる日に福岡から出張で来ていた父が、渋谷の道玄坂を登るなんとも言えず寂しげな後姿、死ぬ直前に私に電話をかけてきた時、また家に帰るねと能天気な返事をしたこと、あとから、死んでいる父を発見したのがその亡くなった弟で、その場から私に電話をかけてきたことを今でも思い出す。涙が出るのは思い出す時だけ。

私たちは、ボードゲームの盤の上に生きる駒なのかもしれないなと思う。
その時が来るまで自由です。生きているという制限の中で自由です。
恐れることはなにもない。だって、知らないんだから。


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話変わって、やっと書けた。
記念すべき note 1作目は、これだったかぁ。

♯エッセイ  ♯旅 ♯生き方 ♯生きているということ 








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