伊東潤著『茶聖』を読んで、お茶を点てる。
こんにちは。しげです。
最近、新型コロナウイルスの影響で音楽イベントを始め、いろんな行事や集まりが中止になっていますね。仕方ないとは言え、残念です。
僕は毎週水曜日、茶道のお稽古に通っているのですが、先日のこと。事務所の方から電話で、
「新型コロナウイルスの影響で、お稽古を3月いっぱいまで中止します」との連絡がありました。
ですよねー
自粛の波が、お稽古まで広がってしまった。
そうなるだろうと思っていたけれども、いざそういう決定が出ると悲しい。ましてや、最近の僕は茶道意欲がどんどん湧いていたから余計に悲しいのです。
僕の茶道意欲が刺激されていた背景には、ある本が存在します。
それは………
伊東潤先生の『茶聖』
僕自身、歴史小説はあまり読む方では無いし、伊東潤さんの作品は1つも読んだことがありませんでした。しかし、表紙にある『茶聖』というタイトルと黄金の茶室。興味湧かせる文言がいくつも書かれた帯に惹かれ、気がついたら購入してしまいました。
購入したからには読まなくては、ということでパラパラと読んでいく。ページをめくる指が止まらないほど面白い。歴史小説は難しいイメージがあったのですが、分かりやすく丁寧に書かれているので読みやすい。
僕自身が、茶道をやっているからでしょうか。驚くほどに、頭の中にスーッと物語が入ってくる。目を閉じれば、まぶたの裏に場面が映し出される。これも、伊東先生の文章が上手いからなのでしょう。(笑)
利休といえば、茶の湯を大成させた人
この本を読む前は、茶道をやっているにも関わらず、そんなイメージしか頭にありませんでした。
しかし、この本では、茶の湯というブランドを作り上げたデザイナーとして。政治を裏から操るフィクサーとして。表裏一体の姿が描かれていました。
ーーー茶の湯は「聖俗一如」なのだ。
「異常なまでの美意識」という聖の部分と、「世の静謐を実現するためには権力者の懐にも飛び込む」という俗の部分があった。この水と油のような二種類の茶が混淆され、利休という人間が形成されていた。
(『茶聖』伊東潤 幻冬社 p436より引用)
文中にもあるように、利休は「聖俗一如」。泥に根をはるハスの花のようなものでしょう。
静謐を目的とした、茶の湯の政治利用という「俗」の部分があったからこそ、茶の湯は未来永劫続くブランド。文化になったということです。
凄い……。
千利休という人間のイメージがガラッと変わりました。茶の湯を大成と文字で書くと、簡単なことに見えてしまいますが、こんなにも大変だったのか……というのが本著を読めば分かります。(興味が湧いた人は是非こちらから)
そんな、壮大な物語に刺激され、ぐんぐんと茶道意欲が高まっていた僕。この本を読み終えたのが、3月3日の夜22時くらいでした。
3月3日は桃の節句。この本に影響され、なんだかお茶を一杯を点てたくなってしまいました。
ということで、23時閉店間際のイオンに行き、安くなっていたひな祭り関連和菓子を購入してきました。
(△割引されている ひな祭り関連商品)
(△購入した洲浜だんご)
クリスマスやハロウィンしかり、イベントごとが終わって、売れ残ったイベント限定商品ってなんだか悲しくなってしまいますよね。
ということで、割引コーナーに追いやられていた洲浜だんごを購入。帰宅すると、すぐにお茶の準備に取り掛かります。(と、言っても御釜なんて持っていないので、T-falで湯を沸かすだけですけど……)
やはり、お茶を点てている時は心が静まるような気がします。「戦国動乱期の武将達の心を静めた茶の湯はやはり素晴らしい」など、思いつつ、茶筅を振りました。
(△点てた抹茶と洲浜だんご)
点て終わると、『茶聖』の内容を反復しながら、桃の節句を感じてお茶を服します。
ああ、お茶のやってて良かった。
そんな想いが心から出てきました。それと、同時に、
僕も、自分自身の「侘」を見つけたい。
茶聖を超えていきたい。
という想いが溢れてきました。
文中に、
「ああ、そして織部殿の茶もいつか廃れ、誰かが新たなものを生み出していく。茶の湯とはさように生々流転であらねばならん」
ーーー茶の湯が生々流転でなくなった時、茶の湯は鼓動を止める。
(『茶聖』伊東潤 幻冬社 p437より引用)
と、あるように僕も「新たな茶の湯」を生み出したい。そう思える瞬間でした。
これから先、「茶道」という道は果てしなく長いでしょう。しかし、自身の「侘」を見つけるまでは歩みを止めないつもりです。
おしまい。
【お詫びと訂正 2020 4/10】
伊東潤先生のお名前を誤って「伊藤」と記載しておりました。大変申し訳ありません。2020年4月10日に訂正させていただきました。
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