純度100%の"好き"を貫けることがきっと真の幸せ
好きなこと
好きなもの
好きな人
純粋に、まっすぐに"好き"なだけならきっと幸せなんだろうけど、その"好き"にどうにかしたいというコントロールが入ると途端に不幸せな方向に転がっていく。
「好き」が「嫌い」になったパターン
↓↓↓
なんの混じりっけもなくただ純粋に"好き"だったはずなのに、いつのまにか
好きなことを「お金にするには」とか
好きな人を「自分だけのものに」とか
どんどんとその透明度は落ち、いつのまにかマッコリみたいになってしまう。マッコリどころか日本酒もワインも、そもそも酒飲まないくせに酒で例えてしまってよかったんだろうかと思いつつ。
物にせよ人にせよ、どうにかしたいと思うあまりコントロールが入るとたいていダメだ。私も上の記事のように好きなことをお金に変えた過ぎて、ややこしい方向に転がった。
若かりし頃は好きな人に嫌われたくなくて、どうにかしようとコントロールが入り、重たい女になって結果嫌われた。
いちばん最近やらかしたのはInstagram。新しく始めたことをどうにかした過ぎて、巷にあふれる「毎日投稿」「鬼の継続」「インプレッションが…」「エンゲージメントが…」「フィード投稿が…」「リールが…」といった情報に翻弄され、また執着して自滅した。
追うと逃げるって言葉があるが、
これはたぶん本当だ。
「逃げる」といっても一方的に逃げられるという受動的なものばかりではなく、自分がイヤになったり嫌いになったり自滅して離れる能動的なことも含めてだ。
こうやって改めて自分を振り返ってみると、場を変え人を変え、同じようなことやっている。"思考パターンが同じ"ということなのだろう。考え方の癖というやつ。
何度もケガして痛い思いして、ようやく自分のパターンにも少しは気づけたので、もう無意識にしんどい方向に転がっていくのをやめた。
マゾな生き方はもうやめにした。
作品の制作も「作らなければ」に囚われて作るんじゃなく、Instagramも「投稿しなければ」にやたら囚われての投稿はしない。
考えも生き方も甘いと言われればそれまでだし、そして大きな結果は得られないけど、甘いやり方より自滅して放棄したり消滅したり、私の場合そっちの方がよほど痛いから。
せっかく自分が好きだと思ったものはピュアに好きでいたい。嫌いにはなりたくない。
でもそんなふうに自分と折り合いつけて心のままで過ごしていると不思議と
作品作りたい!作ろう!
動画作ってリール投稿しよう!
ってなる。デカい結果は得られなくても心の健康と安定が私には必要。だから自分自身に
それでいい
と決めて言ってあげる。
怠け心で回避したのではなく、「頑張る」フェーズも正面からちゃんと経験したのだから、
それでいい
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