あるnoterさんの想い出|遺されなかったことばたち
前書き(読み飛ばしOKです)
先日、以下の記事で、自分の過去記事が恥ずかしくて読み返せないことについて書きました。このことについて悩む方は私以外にもいらっしゃるので、その方々へのエールの意味合いもありました。
芸術人類学者・中島智さんとのやりとり(?)を引いてきたのは、中島さんならいつか(拙記事を目にされる可能性もありますから)、全国の迷えるクリエイターさんたちに向けて、「処方箋」を X (旧twitter) で発信してくださるのではないかという期待からでした。
記事を読んで、直接また間接に、励ましのリアクションを下さった方々に、まずは御礼申し上げます。
コメント欄でお話ししているうちに、とあるnoterさんのことを思い出したので、新たに記事を書くことにしました。いつかnoteで振り返っておきたいと、ずっと思ってきたので・・・。
と、いうあたりで、本題に移ります。
本題「あなたの作品を読みたい人は必ずいます」を伝えたい理由
noteの街をお散歩していると、「お気に入りnoterさんの記事が読めなくなって寂しい・・・」という声を聞くことがあります。その声にあわせて、私からも(誰にともなく、ですが)お願いをしておきたいのです。もし可能なら、noteをやめても記事を残しておいていただけたらうれしいです・・・と。
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私がnoteを始めた1年目、まだnoter様方との交流がどんなにかけがえのないものなのかに気づいていなかった頃のことです。
そのnoterさんは、とても不思議な方でした。細かいことまで書くのはためらわれるので伏せますが、ASDや愛着障害、性自認など複数の生きづらさを抱えた方でした。ですので、その方を「彼」と呼べはいいのか「彼女」と呼ぶのか、どちらがいいかさえ、今もわからないままです。
詩や俳句、掌編などを書かれる方で、ちょっと見たことがないほど文学的なセンス(純度の高いことば)をお持ちでした。心を言葉につなぐとはこういうことか、と思わせてくれた点に関しては、古今東西のどの文豪よりもすごいかもしれないと思うほど。私がいろんな文学を読む際にチューニングを合わせづらかった特定の精神状態に意識を添わせることができるようになったのは、まったくもってその方ひとりのおかげです。
ただ、自己受容がまったくできず、精神科に通ったりもされていて、希死念慮にいつも悩まされている方でもありました。
その方のコメント欄を訪ねて、いろんなお話をしたものです。
世間の人たちは、アーティストや画家、詩人などを「孤高の人」と呼んで憧れるのが好きなところがあって(私もです)、文学史などを見渡しても、時折、神話的な語られ方をする人がいます。
その中で、実際に「孤高」だった方もいるようです。でも、その人の作品が残っているということは、理解者とひとりだけでもつながっていたからこそ、です。作品を(死後の場合もあるにせよ)世に出し、命脈をつないだ賛同者がいたわけですから。
ですが、そのnoter様は、心を許した人はすぐに去っていく、SNSも苦手だし、書くことに意味を見いだせなくなった。自分の作品を好きだとは思えない。俳句も子どもの頃から家族に教わってきたけれど、いい思い出じゃないから詠むのも苦しいだけ。自分は、フランケンシュタイン博士によって被造され、且つ遺棄された怪物のような、醜い人間だから・・・と、つまりは自己否定の思いから(いわば"生き延びるための自傷行為"のひとつとして)、作品ごとnoteアカウントを消してしまわれたのです。
リアルな人間関係とは違い、SNSでは、書かれたことばがその人の実存のすべてです。それが、いつの間にか消滅していたことに気づかされる──。
デジタルとは怖ろしいもので、消してしまったが最後、なんの痕跡も残りません。
昔の記事含め、時々読み返して鑑賞していたのに、読めなくなってしまったのは、あまりにも残念な損失でした。せめてあの詩、あの句だけでも書き留めておけばよかった・・・と、後悔を呼び覚ます作品は、ひとつやふたつではありません。
もちろん、その方は、自分の人生を少しでも心穏やかに過ごすためにnoteを始められ、同様の理由で去っていかれたわけですから、それについては私が口を挟む筋合いはないのです。
でも、もし、今これを読んでいるあなたが、「もう、noteはやめるから消してしまおうかな? 残しておいてもいいけど・・・」と迷っておられるなら、可能であればぜひ残しておいていただきたいのです。あなたのnoteを好きだと思う人に出会ってきたはずだし、まだ出会っていなければ、これから出会うはずだからです。
きっと、誰かの作品を好きだと思う時、その人と自分はある一点においてすごく「似ている」のだと思います。ですから、必ず、好きだと感じ、また読みたいと思ってくれる人がいるはずです。世界は充分に広いですから。
自分をまっすぐに見つめて書いたものは、たとえ悲しく重苦しい内容であっても、笑顔の元になるかどうかよりももっと大切な(※)、誰かの"生きる糧"になるはずです。
翻って──私自身は自分の書いたものを読み返すことができなくなる性分ではあります。
でも、公開した後、その記事は私の手を離れ、その作品自身が(読み手の《主観》との相互作用で)「存在意義」を獲得していくのだろうと思うようになりました。
だって、そのnoterさんはご自身の書いたものを嫌いだと言っていたけれど、私はとても好きだったから。
作品をつくったのは私であっても、だからといって消去してしまう権利はなくて、その権利も含めて作品自体に手渡したのだと思うようになりました。まさに、産み落とした子どものようなものです。
前回の記事に書いた「自分はある種の他者である」というのは、そういう意味です。さらに言うなら、私を今の私にしたもの(言語や書籍、教育や文化)は、お預かりしているもので、私の中にいる「他者」ですしね。
凍りついて血の涙を流す星のような、真冬の墓標のような、鬼気迫る凄みを持つ、痛ましくも美しいことばを綴る人。
ボードレールを訳しながら、その向こうにふと、その方の紡いだ今は亡きことばたちが透けて見えるのを感じることがあります。そして、長い時を経て今に伝えられたボードレールのことばが、なおいっそう得難いものとして感じられます。
ある時代を生き抜いたことばの背後には、それを書きとめた人の目交いをかつて過った名もなきことばたちが、海のように深い陰影をたたえて、静かに眠っているのですから。
幸せというものが「適度に満たされた状態」を指すのなら、苦しみは幸せを奪いはするけれど、同時に不要なものをすべて剥ぎ取って、ある人に、その人自身の純度を窮めさせる働きをするのかもしれません。
ウクライナ侵攻、大阪の心療内科での放火など、事件がある度に、被害者を想って傷つき、加害者の心の闇に寄り添おうとする、そんなひとでした。
矛盾を見過ごして進んでいく世界に、どうしても順応できない方でした。
「それでも生きていて」と願うことの残酷さを、時に重く胸にためて──月と地球ほどに離れたそのひとの孤独に、耳を傾けました。
繰り返しますが、その方がnoteを閉じてしまわれたのは、ご自身の心理的負担を減らすためですから、赤の他人である私が判定すべきことではありません。ただただ共感して力づけてあげたかった思いだけが残ります。作品だけではなく、その方の生きづらさも含めて、ひとりの人間として。(そのときの私なりに頑張りはしたのですが、力及ばずでした・・・)
ことば自身は永遠の生命を持っているけれど、生かされたことばがあり、葬られたことばがある。
せめて、その方(ご存命のはずです)の身代わりとなって、あのとき消えていったことばたちの「遺志」は継ぎたいと思っています。
もしかしたら、私がnoteを続けている理由のひとつが、それなのかもしれません。かつて、何か幻のように、その方と語らった不思議な街──それが、noteなのですから。
少し、明かしすぎたでしょうか。
当時その方と交流のあった共通の友人noter様も今はほとんどいないため、この記事を読んで「ああ、あの人だな」とわかる方はおそらくいないと思います。だからこそ書きましたが、このままの形で残しておいていいのか、また改めて見つめ直すときが来るかもしれません。