体と性について【カトリック教会の教え】
天使とちがい、”霊”と”体”をもつ存在として神に造られた「人間」。それなら、この”体”には何か意味があるのでしょうか?”性”には意味があるのでしょうか?
カトリック教会の教えをまとめた『カトリック教会のカテキズム』のなかには、人間の体の意義が書かれています――「”神の似姿”の尊厳にあずかる」。
今回は『カテキズム』から、「肉体」「性別」「貞潔(心と体を清く保つこと)の徳」「倫理に反する手術」の箇所だけ選んでご紹介します。(※副題追記)。
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神にかたどって造られた
肉体の尊厳
364 人間の肉体は、「神の似姿」の尊厳にあずかります。それが人間の肉体であるのは、まさに霊魂によって生かされているからです。人間の全体がキリストのからだに結ばれ、聖霊の神殿となるように召されています。
「肉体と霊魂が一つになっている人間は、肉体的な状況的なもとでは物質界の諸要素を自己の中に集約しています。その結果、物質界は人間を通してその頂点に達し、人間を通して創造主の賛美を自由に歌いあげるのです。したがって肉体の生活を軽蔑することはゆるされません。反対に肉体は神に造られ、最後の日に復活するのですから、善なるもの、栄誉に値するものとして取り扱われなければなりません(※『現代世界憲章』第14項)」。
神は「男と女に創造された」
性別の真実
2333 男女はそれぞれ自分の性の独自性を認め、受け入れなければなりません。男女の身体的・精神的・霊的相違と補完性とは、結婚善と家庭生活の開花とに向けられています。夫婦や社会の調和ある部分は、両性の間の補完性、依存性、そして相互扶助がどのように生かされるかにかかっています。
2393 神は人を男と女に創造し、双方に等しく人格の尊厳を与えられました。男女はそれぞれ自分の性の独自性を認め、受け入れなければなりません。
清さを得るための戦い
ふさわしい態度と服装
2521 清くなるためには羞恥心が必要です。羞恥心は節制を構成する要素の一つです。羞恥心は人間の心の中にあるものを守り、隠されていなければならないものを明るみに出すことを拒みます。羞恥心は貞潔のためにあるもので、その美しさを裏付けるものでもあります。また人のまなざしや態度を、人間としてのまたその結合体としての尊厳にふさわしいものにしてくれます。
2522 羞恥心は人間およびその愛の神秘にベールを掛け、愛の交わりにあっては忍耐と節度とを促し、男女が互いに与え合い、すべてをささげ尽くすという条件が満たされることを要求します。羞恥心とは慎みのことです。衣服の選択にあたっては示唆を与え、不健全な好奇心が現れそうな場合には、沈黙したり慎重になったりさせてくれます。こうして、羞恥心は思慮・分別となるのです。
2523 感情にかかわる羞恥心もあれば、からだに関する羞恥心もあります。この羞恥心はたとえばある種の広告に見られる人体ののぞき見主義的な展示や、人々の内密な関係を極端な形で公開し続けるメディアの誘惑などに対しては抗議のために立ち上がります。羞恥心は、流行の誘惑や支配的なイデオロギーの圧力などに対して抵抗できるような生き方をするよう励ましてくれます。
全面的な人身尊重
倫理に反する手術
2297 厳密に治癒を目的とする医学的指示のある場合を除いては、故意に罪のない人々の切断手術や切除手術、不妊処置などを行うことは道徳律に反します。
出典:『カトリック教会のカテキズム』, カトリック中央協議会, 日本カトリック司教協議会 教理委員会 (著, 監修), 日本カトリック司教協議会教理委員会 (翻訳), 2007.