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「移動」から国民国家をとらえなおす|対談・松村圭一郎×若林恵【『人類学者のレンズ』『第七の男』W刊行記念トークイベントより】

ヨーロッパの移民問題を扱い、新自由主義経済の暴力の核心に迫った伝説的な"告発の書"であるジョン・バージャーの著作『第七の男』。自身も移民についてのフィールドワークに取り組む松村圭一郎は、バージャーの特異な移民の描き方について、人類学の研究手法との類似性を見出していたという。

文化人類学者の視点から見たバージャーの挑戦、「国家」「人種」という概念が抱える闇、そして新たな民主主義のかたちの可能性とは。8/5(月)に福岡・久留米の「MINOU BOOKS」で行われたトークイベント「人類学者の視点/ストーリーテラーの手法」より、松村圭一郎と、本書の翻訳を担当した若林恵の対談を公開。ぜひ5月24日公開の関連スペシャルコンテンツ〈これは「私たち」の物語である|松村圭一郎 【『第七の男』を読んで #2】〉とあわせて読んでほしい。

Cover Photo: 北ギリシャの村。『第七の男』より
© JEAN MOHR, 1975/JEAN MOHR HEIRS, 2024

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『第七の男』に秘められた挑戦

若林 お会いするのお久しぶりですね。

松村 そうですね。若林さんにお会いしたいと思っていたところ、ちょうど『第七の男』が届いて。面白そうだと思って読み始めたら夢中になり、気づけば若林さんに連絡していました。

若林 ありがとうございます。献本させていただいたら、すぐに反応をいただいて嬉しかったです。

松村 ちなみに、わたしは昨年1年間フランスに滞在していて、そこでエチオピアからの移民について調査をしていたんです。ですから『第七の男』とは、当然響き合うところもありました。

若林 フランスでの滞在については何か論文などでまとめられるんですか?

松村 もちろん何らかのかたちにはまとめないととは思っていますが、ジョン・バージャーのことを知ってどんな書き方がありうるのか、大きな刺激をもらいました。

若林 ジョン・バージャーは1926年生まれのイギリスの作家で、2017年に90歳で亡くなったのですが、とにかくいろんなことをやっていた人です。もとは美術家でしたが、後に美術評論家となり、小説も執筆して『G.』という作品でブッカー賞を受賞しています。バージャーの名を広く知らしめたのは、「Ways of Seeing」というBCCの番組ですが、バージャーはこの番組の企画・脚本・プロデュースのすべてを担当し、のちに同名の書籍にもなりました。邦訳は『イメージ:視覚とメディア』というタイトルでちくま学芸文庫に収録されています。さらには、スイスの映画監督アラン・タネールと「ラ・サラマンドル(La Salamandre)」という映画を含め何作か共同制作していたりもします。

松村 本当に多才なんですね。

若林 多岐にわたる分野で活躍したため一言で説明するのが難しく、そのため『第七の男』も、どのような読者にどのように響くか予測できなかったんです。ですから、なおさら松村さんに反応いただけて嬉しかったんです。

松村 確かに最初は「これは一体何の本なんだろう?」と掴みどころがない感じでした。文体もころころと変化していきますし、主語がずっと三人称の「彼」で、一体どの「彼」なのかわからない。トルコの「彼」なのか、ポルトガルの「彼」なのか……ところがこのスタイルによって、物語が単なる個人の視点ではなく、「彼」の背後に多くの人びとの顔が浮かび上がるようになっていることが、読み進めていくとわかってきます。その複数性を感じさせる手法が面白いんですね。
 移民の研究をしていると感じるのですが、移民問題というのは、数ばかりが取り上げられるんです。トルコへのシリア難民が過去最大規模で何百万人だったとか、イタリアに到着した難民が過去最高記録の何十万人になったとか。そこには確かに一人ひとりの人間が存在するはずなのに顔はほとんど見えてこない。バージャーはきっとたくさん取材をしたんでしょうね。

若林 かなり取材したはずです。

松村 個々人の物語を、ある意味抽象化して、それをすべて三人称の「彼」として描き出すという手法は、大きなチャレンジだったのだろうと思いますが、これは人類学者としては共感できるところです。

若林 自分が本書で好きなのは序文に記されている「不自由とは、客観と主観の関わり合い方なのだ」という部分です。バージャーは、移民の体験を描写する際、単に移民の立場に立つだけでは不十分だと語っています。つまり、客観と主観は常に相互的に関わっていて、それをどう記述するかが本書の大きなテーマとなっています。客観と主観が別個のものとしてあるのではなく、ある意味入れ子状態になったものとして、その状態を描き出そうとしているんですね。

松村 実際に、この世界は一人ひとりの主観で成り立っていますし、それを平均化することは、存在しない「平均的な人」をつくり出してしまうことになります。人類学のフィールドワークの成果は、他の学問と比べて主観的な学問だと見なされがちですが、移民が単身で出稼ぎに行き、何もない休日をどう過ごすかという体験は彼らにとっての現実であり、単なる数では捉えきれないものです。人類学ではそれをきちんと描き出すことが求められています。

若林 そのような視点で見ると『第七の男』はいかがでしょう。バージャーの採った手法は、移民たちの主観性に寄り添うものではありながらも、個々人の背景や物語を思いっきり捨象したという意味では、移民たちの存在を「平均化」してしまっているとの批判もありそうですが。

松村 何をもってうまく書けたとするのかは判断は難しいところですが、少なくとも『第七の男』は、客観的な記述と主観的な記述のどちらでもあって、どちらでもないような書き方に果敢にチャレンジしていますよね。
 本書では物語を描く過程で、例えばフランスの労働者に占める移民の割合、資本主義が移民労働を生み出す構造についての分析的な文章なども含まれています。単にひとりの移民の主観的な物語として押し通すわけではなく、データと物語とを往復させながら現実に迫る手法は、人類学における「エスノグラフィックフィクション」(実際のフィールドワークをもとにフィクションの形で現実を描く研究手法。複数のインタビューや観察結果を組み合わせ、特定の個人に集約することで、プライバシーを守りつつも現実をより生々しく、かつ広範な視点で捉えることができる)にかなり近い手法だと言えるのかもしれません。

若林 いままさに生活史研究がブームになっていたりもしますが、当事者の声に耳を傾けることが重要であることは疑いないとしても、それがどう記述され、どのような流通経路を通して情報化されるのかというところにも注意が必要な気がしますし、まさにバージャーは『第七の男』の序文でも、この本が「本」として存在していること自体に、すでに移民たちを他者化してしまうようなバイアスが潜んでいることに警鐘を鳴らしています。例えば、松村さんから見て、例えば移民といった問題は、どのように記述しえたら意味あるものになるとお考えですか?

松村 難しいですね……メディアは単に数字を取り上げて恐怖を煽り、その移民排斥的な描写が右派の台頭を促しています。その状況にいかに抵抗しうるのかということが、ひとつの課題になるのかとは思いますが、わたしがエチオピアの村を出た女性たちにインタビューを行ったときは、一人ひとりの葛藤──家族や子どもを残してきたこと、帰郷を促す家族の声、それでも地元を離れたいという思い──を描くことで、移民を“顔の見えない群れ”ではなく、“隣人”として捉えたいと考えていました。どこまで責任を負えるかという点で、すべての人を実名で書くことはできなかったのですが、関係が深まった方については実名で書いています。

Photo: 19世紀の移民たちの住まい。ニューヨーク。『第七の男』より
© JEAN MOHR, 1975/JEAN MOHR HEIRS, 2024


主観と客観の対立を超えて

若林 『第七の男』では「先住労働者」という表現を使って、先にその土地で働いていた人びとが、新しく移民としてやって来る人びとに対して恐怖や警戒心を抱くさまが描かれています。この感情は移民に対してフィードバックされ、それが抜き差しならぬ対立へと発展していくこともあります。アメリカの最近のニュースに、ベネズエラからアメリカに来たばかりの移民が「早く国境をシャットダウンしろ!」と不法移民の流入を止めるよう主張するシーンがあったのですが、自分が移民だからといって必ずしも移民を歓迎しているわけでもないといったあたりの心理的機微は、実際なかなか複雑であるように見えます。

松村 自分たちはすでにアメリカに入ったことだし、新たな移民は排除しようということですよね。わたし自身も折に触れて、アフリカや南米からの移民が船でビーチに上陸する映像をSNSで観ることがありますが、移民がまるで侵略者のように映り、恐怖を煽りますよね。

若林 そう見えてしまいますよね。

松村 ただ、わたしがエチオピアの人びとにインタビューした経験では、彼らの多くは飛行機でやって来るんです。船で1回に到着するのはせいぜい数百人程度。空港には飛行機で遥かに多くの移民や難民がやってきますが、それには恐怖を感じないじゃないですか。やはり、あのような映像の切り取り方や煽り方は気をつけなければいけないし、それを別の語り口でどのように中和すべきかについても考えさせられますね。

若林 今年4月に松村さんが出された『人類学者のレンズ:「危機」の時代を読み解く』はまさに人種差別などの時事問題にふれています。これは新聞での連載が元になっているんですよね。

松村 2020年5月から月1回、西日本新聞で連載していたものです。緊急事態宣言の発令やオリンピックの延期、ロシアのウクライナ侵攻といった激動の時期で、人類学の視点から何を伝えることができるのかをつねに自問していました。また、この時期は、アメリカの文化人類学者のルース・ベネディクトが1942年に刊行した『RACE AND RACISM』の新訳版『レイシズム』をはじめとして、人類学の古典がいくつか刊行されたタイミングでもありました。そこでは、レイシズムに生物学的根拠はなく、国家の政治的な利害関係からつくられ、煽られるということが書かれています。いま読んでも鋭い指摘だと思いますし、移民問題に深く関わる内容だと思います。

若林 バージャーが『第七の男』で描こうとしたのは、まさにそのことだったと思うんです。つまり世界経済あるいはグローバル化した新自由主義経済の猛威のなかで一種の捨て駒として移民が利用されているという、いわば客観的な状況と、個々の移民が生きなくてはならない主観的な「不自由」とが、どう関わりあっているのか。それをバージャーは描こうとしたのだとは思いますが、とかくわたしたちが移民問題に限らず、さまざまな問題を語るにあたっては、どうしたって、客観的な事実か、個々人の物語か、のいずれかの視点に偏ってしまいがちで、そこでは、それぞれの結びつきを考えようとする視点がうっかりすると抜け落ちてしまうような気がします。

松村 例えば、わたしは連載でトランプの話にふれました。2016年にトランプが大統領選に出馬したとき、エリート層は彼の存在を真剣に捉えていませんでした。けれども、フィナンシャル・タイムズの編集委員会委員長で、人類学の博士号をもつジリアン・テットが、貧困地区出身の友人に勧められてプロレス観戦に行った際、そこで耳にするやりとりや語り口、「Bad Guy」などといったシンプルな語彙が、トランプ支援者の集会と似ていることに気づいたそうです。そこで初めて大衆が感じていることを理解したというんですね。
 バージャーに倣って言えば、これは、トランプ支持者が主観的に見ている世界が、東部のエリート層のそれとはまったく違っているということですから、そうしたことを度外視して、いたずらに「客観」を持ち出してトランプ支持者を批判しても、基本平行線になってしまうんですね。

若林 わたしが読んだのは、『The Atlantic』というニュースメディアの記事で、そこではこんなことが語られていました。「トランプ支持者は彼の発言を字義通りには受け取らないが真剣に受け止める。逆に、トランプ批判者は彼の言葉を字義通りに受け取り、真剣には受け止めない」。

松村 うまいですね。

若林 これもある意味、主観と客観の問題に通じているような気がするのですが、トランプの発言が客観的に正しいかどうかは実は問題ではなく、彼の言葉にはどこか「真剣に受け止める」価値があると感じさせる何かがあるわけですね。

松村 支持者にとってのリアリティですよね。もしかするとその視点からのほうが、この世界の歪さをしっかりとすくい上げているのかもしれませんよね。移民問題においても、右派が移民を侵入者として恐れ、左派が救済対象と見なす中で、人類学者としてはそこをどのように捉えるべきかという苦悶がずっとあるんです。
『第七の男』でも書かれていましたが、移民の当事者自身は、実は「ついにたどり着いたぞ!」と自分をヒーローのように感じている場合もあったりするわけです。そのような主体性を無視して移民の存在を、ただ「救済してあげるべき人」と捉えるのも違和感があります。バージャーも、移民を単に搾取される存在として描くことに疑問を投げかけていますが、移民という存在の主体性をどう捉えるかについては、あまり一般化して考えないほうがいいと思っています。


「移動」の人類史から考える

若林 移民問題を語る上で、実はずっとモヤモヤしていることがありまして、バージャーの本を読んだあとはなおさらそのモヤモヤが募るのですが、自分は、移民を積極的に受け入れるべきだという議論には、基本よくわからないところがあるんですね。というのも、バージャーが50年前にすでに指摘した通り、移民の問題は、世界のグローバル化/新自由主義経済化にその遠因があるわけですから、移民労働をあまり無邪気に肯定してしまうと、結局はその経済体制を支持することになってしまいますよね。もちろん、現実的には、移民労働に頼らずには経済が回らないのはその通りだと思いますので、排斥しろと言って簡単に出来るわけもないですし、すでに来ている人たちの処遇をどうするのかといったことは、現実問題として重要な議論だとは思うのですが、排斥か、受け入れか、という二元論に固着してしまうと、いずれにせよ結局は現状の経済体制を温存し補強してしまうだけになってしまうのではないかという気がしてしまいます。端的にいうと、わたしたちは「移民はやってくる」という前提から議論するしかないのか、ということなのですが。

松村 ここはどう考えたものか、難しいところですよね。例えば、フランスの人類学者ミシェル・アジエは『移動する民:「国境」に満ちた世界で』で、移民を救済対象や恐怖の対象としてではなく、むしろ新しいコスモポリタンな政治の主役と位置づけています。

若林 と言いますと?

松村 例えばフランスのカレーはイギリスを目指す移民たちの主要な集結地点なのですが、そこではいま興味深いことが起きています。キャンプのバラックのなかにレストランが開かれたり、移民たちが各国からやってくる支援者と活発に意見交換したり。ベイルートにある「ガザ・ホスピタル」という11階建てのビルでも、パレスチナから逃れてきた女性たちが、次々と別の国からやってくる移民たちのために部屋を改装して貸し出したり、新しいビジネスを始めたりしているんです。
 移民が、単なる「〇〇人」といったアイデンティティを超えて新たな自己認識を形成しており、さまざまな国から集まる移民や支援団体と対話や議論を重ねながら、民族や国境を超えた新しい共同体が形成されている。ニュースではほとんど描かれていませんが、これは単なる難民キャンプ以上の新しい共同体、そして新しい政治のあり方を示唆しているのではないかとアジエは論じています。

若林 なるほど。

松村 バージャーの『第七の男』は出版が1975年で、議論の対象となっているのはポルトガルやギリシャ、イタリアといったヨーロッパ圏内からの移民が中心です。現在ではこれらの国々も移民を受け入れる側になっていますので、その意味ではちょっと古い議論にはなります。
 それでも、この本は、ヨーロッパがどのように成り立ってきたかを理解するうえで重要な手がかりとなりますし、南イタリアやシチリアで数百年にわたって移民を受け入れてきた歴史を踏まえてみると、移民が流入している状態というのは、何も現代になって始まったわけではなく、むしろデフォルトの状態なんですね。
 実際、500年前にアルバニアから移住してきた人びとは、いまだにイタリア南部の山奥でアルバニア語を話していたりしますし、彼らが新たにアルバニアからやって来る移民たちをつなぐ役割になっていたりもします。

若林 デヴィッド・グレーバーの『万物の黎明:人類史を根本からくつがえす』でも、歴史上、人びとが広範囲にわたって移動していたことが語られていますが、そうした人びとの流動というのが、むしろ歴史的には当たり前のことだったと考えるなら、現代の移民の存在にもポジティブな光を当てることができるということでしょうか。

松村 まさにグレーバーが語ったように、人類には常に移動を続けてきたという長い歴史があるにもかかわらず、わたしたちは移民に対しては強い不安を抱きますよね。それは、わたしたちが「国民国家」を前提に移民という現象を考えてしまっているところから来ているように感じます。
 移動と支配には深い関係性があって、支配が固定化しうるのは、人の移動が制限されていくうちに、人びとが「ここでしか生きられない」と考えるようになってしまうからです。ところが、かつてはそうした支配に拘束されることなく、人びとが自由に移動し、場所を変えることで生き延びてきた時代があったんですね。
 そのような長い時間軸で考えることができれば、移民を恐怖の対象としてではなく、別の視点からとらえられるかもしれない。「移動の自由」という観点から、何か新しい考えを導き出すことはできないだろうか。最近はそんなことを自分も考えていたりします。

若林 国民国家と、それに紐づくかたちで形づくられてきた「人種」という概念は、わたしたちを根深く拘束している概念ですよね。

松村 歴史的に同じ土地で共存してきた人びとが、国民国家のシステムによって敵と見なされ、暴力が正当化されていくわけです。その意味で、国民国家という体制がもたらした闇が、今なお発露し続けているんですね。それは、日本に暮らすわたしたちにとっても無関係ではないですし、例えば日本と中国の間でも同じような対立が起こる可能性があるわけで、わたしたちもまた、その闇と向き合わざるを得ないときが迫っているのだと思います。

若林 とはいえ、その一方で、国家に縛られない「自由」というものを謳う、いわゆるリバタリアン的な思考やトランスヒューマン的な思考も、広まっている印象もあります。個人的にはあまりそれに肩入れしたい感じはないのですが。

松村 ユアル・ノヴァル・ハラリの『ホモ・デウス:テクノロジーとサピエンスの未来』でも触れられていますが、サイバー空間は身体的な衰えからの解放というよりも、国民国家からの解放と強くつながっていますよね。ハラリに同調するかどうかは別としても、国民国家によって規定されてきた現状のシステムを再考することは、「人間とは何か」を改めて問い直すことでもあるのは間違いなく、その意味でも、わたしたちは大きな問いに直面しているのだと思います。

Photo: 公民館で月に2回開催されるダンスに参加するスペイン人。ジュネーブ。『第七の男』より
© JEAN MOHR, 1975/JEAN MOHR HEIRS, 2024

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松村圭一郎|Keiichiro Matsumura 文化人類学者。岡山大学文学部教員。著書に『人類学者のレンズ:「危機」の時代を読み解く』(西日本新聞社)、『所有と分配の人類学:エチオピア農村社会から私的所有を問う 』(ちくま学芸文庫)、『旋回する人類学』(講談社)、『小さき者たちの』(ミシマ社)、『くらしのアナキズム』(ミシマ社)、『これからの大学』(春秋社)、『はみだしの人類学:ともに生きる方法 』(NHK出版)、『うしろめたさの人類学』(ミシマ社)など。共編著に『文化人類学の思考法』(世界思想社)、『働くことの人類学【活字版】 仕事と自由をめぐる8つの対話』(黒鳥社)がある。

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Photo by Hiroyuki Takenouchi

『第七の男』
ISBN:978-4-910801-00-1
ジョン・バージャー(著)/ジャン・モア(写真)
金聖源、若林恵(翻訳)
造本・デザイン:藤田裕美
発行日:2024年5月15日(水)
発行:黒鳥社
判型:A5変形/256P
定価:2800円+税

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