執着を手放してまた会えたらその時は
これはどこにでもあるよくある話。
子供の頃から一番仲良くしていた友達との接し方がわかならくなってしまった。
彼女は一言で言うと私とは真逆の性格。その違いこそが面白く、凹と凸がぴったりはまる感じだった。
同じクラスになったのは1度だけ。進学先も別々で、その程よい距離感が長続きの一因だったのだと思う。就職して大人になってからも、どうでもいいことで連絡を取ったり、定期的に遊んだり、話題が年相応に変わっていくだけで、学生時代と大して変わらない関係が続いていた。
ここ1年くらいだろうか。今まで当たり前にあった「翌日になれば何の話だったか忘れるほどしょうもないことで笑い転げること」がなくなっていた。徐々に私は彼女の言動にどこか冷ややかな目線を送るようになっていた。嫌な部分を見て見ぬふりできなくなっていた。長い付き合いだから「共感はできないが理解はできる」で済んでいたものが、どちらも難しくなっていた。
各々の道を生きる中で、物事に対する優先順位や生活スタイルの違いも顕著になってきて、共通の話題もなくなってきた。いつしか私は彼女と何を話していいのかわからなくなっていた。何を話しても冷たい態度しか取れず、彼女を傷付けてしまいそうだった。変わっていくのも違うことも当たり前なのに、寄り添いきれる自信がなくて、関わることに躊躇いが生まれていた。変わってしまったのは彼女か、私か、はたまた双方か。その変化と、対応できなくなった自分に嫌気が差していた。
お互い逆方向に拗らせた私達の凹と凸のへこみとでっぱりが、年々深まり、飛び出てしまったのだろう。今まで上手くはまっていた2つのピースは変形し、ずれが生じてしまった。
あの時のあの発言はまずかったか、もっと愛想良く振る舞うべきだったか。今なら上手く対応できるのかと言われると、わからない。そんなことを思ってしまう自分が悲しい。今まで通りでいたいだけなのに。後悔と葛藤。もやもやはするけど、解決策が見出せない。そしてまた溜まっていくもやもや。
どうでもいい友達だったらサクッと縁を切って終われるのに、彼女の場合はそうもいかない。そんなことをしたら、いよいよ友達がいなくなってしまう。
彼女を失えば、私は。
自分で思っている以上に、私は彼女に依存していたのだ。
それに気付き、執着を手放したら、ふっと心が軽くなった気がした。
人は歳を取るにつれ、いろんな経験から自分のことがだんだんわかってくるようになる。自分の中で譲れないものが生まれてくる。
その「譲れないもの」に反するものを、拗らせた大人は許せない。
他人との境界線を引くのが上手くなったりならなかったり、そのうち自分と似たような人だけを周りに残して、人間関係は断捨離されていく。
これはどこにでもあるよくある話なのだ。
そんなこんなで、今はふんわりと距離を置いている。
とは言え、どうしても許せない決定的な何かがあるわけではないし、絶縁するつもりもないので、そのうちまた会えたらその時は飯でも行こうぜ、な感じでいる。それくらいでいいんだと今は思える。
人間関係リセットするほど人がいねぇよ、と思いつつ見始めたこの動画のおかげで、知らず知らずのうちに自分が抱えていた執着に気が付いた。こんなことで悩み出すお年頃なのね私達。いつもありがとうkemio先生。君にはいつも救われてばかりだ。
いつの世もしなやかに、したたかに。ね。