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方言とふるさとと

わたしは関西某県で生まれ、18歳までそこで育った。ネイティブの関西弁スピーカーである。
テレビなどで関西弁を耳にしない日はないので、関西弁を「方言」と呼ぶことには違和感があるかもしれない。とはいえ、標準語を話す人たちから見れば立派な「方言」なのである。

18歳の頃のわたしは反抗期やら何やらで家にいることが窮屈でたまらなかった。周りを取り囲むあらゆるものを憎み、関西にいることも嫌でしょうがなかった。言葉も文化もひっくるめてすべてを否定していた。
進学を口実に家を飛び出し、長渕剛の「とんぼ」の歌詞よろしく、北へ北へと向かった。
そこは関西とは言葉も文化も歴史も全く異なる別天地だった。例えようのない解放感があった。

その地には標準語ベースの方言が存在していた。
わたしは一秒でも早くその方言を使いこなすべく、注意深くリスニングを行い、発音練習も怠らなかった。
間違ってもマクドナルドを「マクド」などと言ってはならなかったし、「めっちゃかわいい」も秒で「なまらめんこい」と脳内変換できるように努めた。「ごみほかして」もさらりと「ごみ投げて」と言えるようになった。気温が氷点下になれば「ばり寒いな」を「なんまらしばれるべや」で瞬時に上書きした。そんな涙ぐましい努力のかいあって、出身地を自分から明かさなければ関西人と見破られることはなくなった。
何かを成し遂げたのだ。

いきなり話が変わるが、わたしは出身地である関西某県と愛媛県のハーフである。
愛媛県出身の母は、それはもう見事なまでの関西弁スピーカーだ。18歳で就職のために愛媛から関西に出てきてほぼ60年経つからだろうか、自分から明かさなければ四国の出身だとは誰も気づかない。
完全に関西弁をマスターしていて、親兄弟や親戚、幼馴染み、誰と話してもふるさとの方言を使うことがない。徹底している。親兄弟と話す時くらいはふるさとの言葉が出そうなものだが(わたしはそうであった)、そんな気配は微塵もない。
今は亡き母方の祖母が話していた愛媛の方言がたまらなく懐かしく思い出されることがある。
「なんちゃあありゃせん」「こまい」(小さい)「なにやろが」(何かが)「そがいな」(そんな)「もがう」(逆らう、抵抗する)「ほんじゃけんど」(そうだけど)「おつくばみ」(正座)などなど……
西日本の言葉ではあるが、関西弁とも中国地方の方言とも違う、やわらかく耳ざわりのいい響きを持つ言葉たちだった。
しかし、その娘である母はとっくの昔に歌を忘れたカナリアである。あの懐かしさを再現することはできないのだ。
祖母の訛りは、もう脳内の記憶を辿ることでしか聞けない貴重なものとなってしまった。他の記憶がどれだけ抜け落ちても絶対残ってもらわなければならない記憶の中に、祖母は生きている。そして、愛媛の方言を話し続けているのだ。ずっと、変わらず。

話は戻る。
北の学校を卒業したわたしは東京や大阪などを転々とし、その都度その土地の言葉を習得するように努めてきた。今でも東京の友人とは標準語で会話をするし、大阪の友人とは大阪弁で会話をする。
自分が知らないところの方言を知ることはとても楽しいことでもあり、少しでも自分が住む土地に馴染めるように溶け込めるように方言を吸収するようにしてきたふしがある。
それでも、どんなところにいても、同郷のひとが話している言葉というのは急にくっきりと浮かび上がって聴こえてくるものだ。
周りのひとがどんな言葉を話していようとも、そんなことをするっ、とすり抜けていきなり耳に飛び込んでくるのである。
ああそうか、同郷の人間がこの人ごみのどこかにいるのかという気づきは、大きな安心感と途方もない懐かしさを感じさせてくれる。
一方母は、親も生家も通った学校も先祖の墓も、生まれ育った村の名前さえも失っている。ふるさとはこころの中にしかないのかも知れず、使わなくなった方言ももうこころの中の引き出しにしまいこんでふたをしてしまっているのかもしれないと思う時がある。
方言は、ふるさとと分かちがたく結びついていることをしみじみと考えさせられる瞬間だ。

こころの病に罹患したわたしは、かつてあれほど忌み嫌っていた関西に、ふるさとに戻ってきた。
あの頃なぜあんなにふるさとを憎んでいたのか、今ではその熱量を思い出すことができない。
今のわたしは「ごーわくわ」(腹立つわ)「めばちこできた」(ものもらいができた)「本直して」(本を片づけて)「なんきん食べる?」「プラッチック」(プラスチック)などとふるさとの言葉を口にしながら日々を泳いでいるのである。
知らんけど。



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