官能的所作としての身体診察 ――伊藤亜沙 「手の倫理」感想文(その1かも)――
「どもる体」に衝撃を受けて以来、伊藤亜沙さんのことは勝手に同志だと思っているのですが、彼女の最新作「手の倫理」の読書は、自分がずっと研究テーマにしていること ――すなわち臨床における決断―― にとても親和性の高いテーマだったので、すごくするするとその内容が入ってきて心地よい体験でした。そして、彼女が「美学者」であることを改めて理解しました。そうか、美学ってこういう学問なのだ、ということがとてもよくわかる本でした。
私の解釈では、美学は哲学や倫理学ととても親和性が高いです。例えば、マルセル・デュシャンが「噴水」を展示したとき、それを観た人たちに起こった問いは「これは、芸術なのか?」とか「これをここにおいていいのか?」という問いであったと思います。まさにこれは美学であるとともに、哲学的問いであり、倫理的な問いです。
さらに、今回の本には「倫理」という言葉がタイトルに直球につけられています。これもかなり意図的なことなのだと思います。北野武が「新しい道徳」の中で、道徳的な視座は非倫理的だ、というようなことを書いていましたが、これは私が考える「倫理的なまなざし」とも一致しています。さらに言うなら「ケアのまなざし」はその構造から「倫理的なまなざし」と対極にある部分があり、私はそのねじれを研究テーマとしているのですが、本稿ではそこについては直接は触れません。
倫理学の中に「メタ倫理学」という分野があって、それはざっくりいうなら「よいこととは、どういうことなのか?(よいことについて考えるのが倫理学なので)」というテーマを扱っているのですが、アリストテレスの時代から現在に至るまで、おそらく主流となっている考え方は「よいこととは、キモチの良いことである」ということです。それに準じるのであれば、(かなり乱暴なまとめですが)キモチの良いことを大きくして、不快なことを最小にするための学問が倫理学と言えます。
世の中をキモチの良いことで満たそうとすることは倫理的な行いだと言えますが、そこにはとても重要なコンセプトを並列させる必要があると思っています。それは「ためらい」です。今ではスーパービッグネームの哲学者、内田樹さんは様々な素晴らしいメッセージをこの世界にドロップしていますが、彼のルーツとなる書籍は「ためらいの倫理学」という本で、おそらくこの一冊に彼の思想のエッセンスが詰まっています。そして「倫理的な行動において最も重要な姿勢は『ためらい』である」ということに、私は本当に賛同します。
前置き長くなりました。本書「手の倫理」の主題は「さわる」と「ふれる」についての差異、そして「ふれる」という所作が持つ倫理的なまなざしであると私は理解しました。本書に「ためらい」という言葉は一切出てこないのですが、私が本書を読んで強く感じたのは、自分の手が他の人やモノにふれるときに感じる「ためらい」の感覚であり、この「ためらい」によって「ふれる」という所作が倫理的なまなざしをもつのだ、ということ、そして、その体験は官能的体験のエッセンスというべきものだということです。
さて、ようやくこのブログのタイトルである「身体診察」に話を移します。我々医療者は、健康問題を抱えて受診した患者に対して、医療面接➡身体診察➡検査という手順を踏んで患者を「診断」していきます。ただ、その所作の中で「身体診察」は少し特殊な位置づけにあります。身体診察は、とりわけそれが「ためらい」なしに行われた場合に、患者に対する侵襲が大きいのです。そのことを、身体診察に長けたプロフェッショナルはよく理解しています。
経験を積んでいる医師は、身体診察という行為の目的が、単に診断に導く上で患者の情報を集めるための手段でないということを知っています。そこには、明らかに患者に「ふれる」ことによる治療/ケアの効果があります。「手あて」という言葉は治療行為を意味しますが、外科医のように治療的手技が存在しない内科医にとっては、実は身体診察の場面のみが「手あて」の場面であるということが少なくありません。だからこそ、医師は触診を行う際にためらいを持ちながら患者の腹部に手を当てます。
もう一つ、身体診察の際に、医師は患者を診断しているのですが、同時に患者に診断されているとも言えます。たとえば、腹部の「触診」所見の中に「筋性防御」という所見があります。この所見は、患者が腹膜炎を患っている際に出現する所見ですが、しばしば腹膜炎がない場合にも、あたかも「ある」ように所見としてとらえられる(すなわち、さわったときに患者のお腹がとても硬くこわばっている)ことがあります。なぜこのようなことが起きるかというと、身体診察が患者と医療者との共同作業になっていないからです。身体診察における「触診」は、まさにそれを受けた人の内側に意識を伸ばしていく行為です。患者の腹部に触れることで、患者のお腹の中の内臓に何が起きているのかということを理解していくためのやりとりが身体診察です。そのためには、ある程度患者側が自分の体内を探られることについての許容が必要になります。そして、「ふれる」やり取りにおいて、医師は患者から「この者の手が自分の内部に入っていくことをどの程度許容するべきか」についての「診断」が行われています。いうなれば、マウントをとられることについての承諾に対する診断です。その承諾が得られたとき、患者の腹壁は本来の柔らかさを取り戻すのです。
この時に、優れた医師は何をしているでしょうか?実は教科書に書かれていない様々なことをしています。例えば、冷えた手をお湯で洗って温めること、腹壁に触れる時に、まずはそっと触れて、だんだん深く触れていく、などがその所作です。そして、最も大切なことは、診察の一つ一つにインフォームド・コンセントを取得していくことだと私は思っています。
腹部の触診だけでも医師はいろいろなことをします。そのたびに「まず、お腹の上の方をさわっていきます」(ここではあえて「さわる」という言葉を用います)「次に下腹部をさわってきます」「今度はやや強く手を押し当てていきますね」という一言を入れることによって、患者は自分が行う介入に対して少しだけ信頼を渡してくれる、というやりとりがそこで生まれていきます。
私が特に気にかけているのは患者の胸に聴診器を当てる時です。聴診器は、それを「当てる側」にとっては聴覚情報入力の端末と理解されますが、「当てられる側」にとってはむしろ触覚センサーなのです。自分が聞こえないにもかかわらず、自分がたたき出しているハートビートとブリーズのサウンド。それを「当てられる」ことによって吸い上げられるというのは、まさに本書で書かれた「距離ゼロどころかマイナス」くらいの距離感です。専門家は、聴診器というデバイスを使って、片手でそのデバイスを持ち、患者の胸壁に当て、患者の体内から発信される生命の息吹に関する情報を吸い上げ、直接両耳にインプットしていく。これはとても侵襲的な所作だと私は考えています。だからこそ、私は半ば儀式的に毎回「聴診器をあてて心臓と呼吸の音を聴きます」といったうえで患者の胸に聴診器を当てることにしています。その言葉の後、承認を患者から得ることではじめて患者の体内に入っていくことを赦されている気になるのです。
ここには、必然的に患者と医療者との間にある個体の境界がぼやける一瞬が生じます。これは官能に他ならないかもしれません。そして、本書でも言及されている通り「安心」は「信頼」を生みません。むしろ「不安」こそが「信頼」の源になります。診察室という特殊な文脈が流れている場においては、少なからず患者は「不安」を持っています。だからこそ、専門家に対して「信頼」をどのような塩梅で提供するべきかという葛藤が生じることになります。その意味では、医療者は身体診察において患者に手を当てる時、信頼を受け取り過ぎないような注意も必要なのです。官能と分析のはざまに身体診察はあります。
やや蛇足ですが、医療者は患者の体の中をスキャンする方法として「画像検査」という手段を持っています。画像検査にはCT、MRI、超音波、アイソトープなど様々なモダリティがあるのですが、ほとんどの画像検査は身体診察のような関係性と時間のダイナミズムを排除した分析情報としてプロセスが完遂されます。その中で、超音波検査だけは異質です。プローブと呼ばれる超音波を発する物体を検査者が手に持ち、それを患者の皮膚に当てていくことで、まるで触診に近い連続的なスキャンを行っていく検査です。ところが、超音波検査では、リアルタイムに内臓が描出されてしまいます。触診や聴診器診察と大きく異なるところはここで、身体診察においては、肌に触れられた部分から専門家の脳に直接患者の体の内部が流れ込んでいきますが、超音波検査では「モニタ」というプラットフォームがあり、さらにはその解像度が身体診察に比べてはるかに高い。その意味では、専門家にとっては「ためらい」、患者にとっては「信頼」に対してやや興ざめする部分があります。ただ、だからこそ、身体診察とピュアな情報解析ツールであるCTスキャンなどの画像検査との間に超音波検査というモダリティが存在することは、今回のテーマを考える上でもとても面白いと思いました。
おそらくこのレビューを読んでも本書に何が書かれているかについてはさっぱりわからないと思いますので、是非本書をお読みください。本書は、まさに現在の「Keep Distant」の社会の中で、人がどう他者と共鳴していくのか、官能的(すなわち倫理的)な生き様を描いていくことができるのか、ということに関するヒントが詰まっています。そして、ここまで書いて「ソフトバンクホークスはなぜ強いのか?」ということについて自分なりに理解できた気がしてきました。気が向いたらこの続きを「ソフトバンクホークスはなぜ強いのか?」というタイトルで書きたいと思います。