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歩く季節。

 てくてく歩いていつものマクドナルドへ。グラコロは期間限定だから食べなくちゃね。


 《因果応報という言葉が嫌い》


 店内は混み合っていて、隣りに車椅子のご婦人とその息子と思われる親子が座って来た。別に聞き耳をたててる訳じゃないが大声で話すものだから良く聞こえる。介護士への愚痴から始まり、朝食と思われるポテトとナゲットをつまむ手を止めることなく、もう今日のお昼と夕飯メニュー内容を話している。
すごい良く聞こえる。
 それから知人か親戚か?の話しになる。
「可哀想だったわね〜子供が居ればね、施設なんかに入れられないで、あんな死に方しなかったはずよね」

『そうだね、施設入ってすぐにボケちゃったし、子供が居ればね』息子は母親を労っているのが感じられる。
突然、車椅子に小さくおさまっていた母親が、急に目を見開き輝かせて言う。

「私には貴方が居てくれるから、こうして居られる、有り難いわ」

 どうやらその人(知人か親戚)が施設ですぐに亡くなって、子供が居なかった為に近くに既に用意していたお墓ではなく、縁者に遠くのお墓に納骨された(無縁仏)らしい内容を把握する。

 息子が続ける。
『あの人達は人間として冷たいから。生前は世話もせずに、それに遠くのお墓の場所も教えてくれなかったじゃない?それが本心だよ。まあ、いづれ自分に返ってくるよ、因果応報』

 母親が返す。
「あの場所じゃあ、誰もお墓参りなんて行かないから可哀想、本当に可哀想、子供が居ればねえ〜」

    因果応報…

テーブルに座った時に、カウンターからペーパーナプキンをごっそりとバッグに仕舞うのを見てしまった。備品を必要以上に持ち帰るのはなんだかなあ。

 因果応報の言葉が虚しく響くのは何故なんだろう?…たぶん一番は故人に対する言葉に聞こえたから


 亡くなった人が可哀想だったか?は本人に聞いてみない(聞けないけど)とわからない。生き方から死に方いろいろあるけれど、他人からみれば不幸に映ることが本当に不幸なのかは誰にもわからない、と浮かんで手元のポテトと共に口に放り込む。よく可哀想と口にする人達に正義をみた経験は一度もない。
比較ありでの自分の幸せを噛み締める時点で、それが幸せなのか不幸なのかなどあまり意味ないようにも思える。幸せを実感するのに天秤が必要ではない。


 グラコロは美味しかった。


ボリュームたっぷりMサイズなのにと思ったら、短いのがたっぷりでした
澄んだ青空


 《冬のちょっと怖い話》


 犬と散歩していたコースをひとりで歩いた。もう犬は隣にいないから季節的にもセンチメンタルになる。ムリはしないけど「運は動かす」と聞くから運動をかねて歩く。その辺りは桜の季節はなかなか有名な場所で、線路を越えて少し先に、とあるマンションがある。そのマンションのエントランスは歩道橋の階段が目の前にあり狭い。犬と進む時は、リードを短めに持ち、対向から来る自転車や歩行者に気をつけて(早足)歩かないとならなかった。プラス晴れでも雨でも何故か建物全体的に暗い。空気が重い。風水的にはどうなんだろうか?などと感じていた。犬も生前はちょっと嫌なものを避けるような態度で通り抜けるのも気になっていた。
 その日、歩いてそのマンションに近づくと改装工事中でマンション名、外壁、エントランス、全てが明るく綺麗になっていた。常に入居者募集中だったことも思い出す。

 「ほら、ここ以前に事件があったマンションだから思い切って改修工事したら満室になったみたいなのよ」

 エッ?……いきなり横から話しかけられて驚いてしまった。ああ、どうもと目を合わさないように会釈し歩き続けた。

 そんな出来事があったのを思い出して、さっき(某サイト)検索してみたら…妙に納得してしまいました…。あの空気感は自分の第六感が波立っていたものだった。たぶん亡犬も同じものを感じていた。トリハダ。やっぱり不思議なことってあるんだな(明るくて素敵なマンションになっていました)

 何が怖いって、それを知らぬうちに吹聴する人間がいて、それをまた気になって検索してしまった人間(自分)がいるまでが込み。人間が一番怖いというオチがついたこと(追伸)


視線を感じて見上げたら…電線に並んだ鳥
赤い手袋で手を振ってパチリ📸


 《それを魂と呼ぶ》


 ペットあるあるだと思いますが、居なくなってから部屋に動物の匂いが消えて、当然、抜け毛も無くなりました。一緒に暮らしていた頃は着る服に毛が付くので、その度に細心の注意をしていた訳です。最近は見つけて(魂)は、払わずに、そのままで家族で喜んでます。こうしてたわいも無い日常に、思い出して笑うのもきっと供養になると思うようになりました。
 先日の休日にクローゼットから出したコートに一本の愛おしい毛(魂)を見つけて、しみじみ…

「来たんだね、うん、一緒に行こうね」と、つい付いた毛(魂)に話しかけていたら娘が、

『え〜なに?何処に行くって…』と返事をしていて笑いました。


 来年のLIVEのチケットが当選し、旅行の予定もあり、同時に癖ですぐに「あーペットホテルと動物病院の予約をしなくては!」と浮かんでからの、
ああ…もう必要がないんだった…の振り幅が広い。


人間は想像力を使って気分転換する。    

ブレーズ・パスカル

 居ないのは寂しいけど、本に気になる言葉があった。


哲学には人間という動物にそのみじめさから目を背けさせることはできない、ということはモンテーニュもパスカルも認めている。だがそのみじめさが何を指すかについては、ふたりの間に違いがある。モンテーニュは、いくつかの点では他の動物のほうが人間より優れていると考えるが、パスカルは、人間のみじめさこそが、人間が他のすべての動物よりも優れていることの証だと考える。「人間の偉大さは、自分がみじめであることを知っているところにある。木は自分がみじめであることを知らない。だから自分がみじめであることを知るのはみじめだが、自分がみじめであることを知るのは偉大なことだ。」
モンテーニュは自然に目を向け、パスカルは神のほうを見る。

猫に学ぶ/ジョン・グレイ 


 これは毛(魂)の話。哲学も用法容量を間違わなければね。


マリー・アントワネットになった犬
銀杏の舞う季節


 《念願のロールキャベツ》


 ずっと前から機会があれば食べたいものだったアカシアのロールキャベツ。先日とうとう食べられました。ただのシチューに入ったロールキャベツでは無かった。自家製のチキンスープがベースだから甘くないシチューでした。わたしは子供の頃からシチューが好きではなくて(甘い)かつ何故白いご飯を合わせるのか?が不思議だった。妙な組み合わせの食べ物がシチュー。大人になって味覚や好みも変化すると聞くけど、そうだとしても塩気が強めのシチューは美味しかった。

 子供時代の友人はご飯ではなくパンを合わせていて、妙に納得した記憶も。

アンティークな看板
当店独特料理、なるほど
スプーンで切れる柔らかさ、白いご飯もピッタリ


 作った経験がないロールキャベツ、じっくりと作ってみたいと思っています。「深夜食堂」のロールキャベツの回のお話を思い出し、手間がかかるメニューなんですよね、ロールキャベツって。後、クリームシチューの回も思い出しました。なんというか、どちらも家族の愛、温かいつながりみたいなものが押し付けられているように感じられて、若い頃の自分の心理を探ってみると、それが嫌だったんだと振り返りました。ステップファミリーだったから偽善的なのが忌々しくて仕方なかった。今はそんな時代もあったね、と笑って懐かしく思えるようになりました。




 また歩き続ける。




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