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淡く切ない匂いの記憶を抱きしめて生きてゆく。

淡く切ない匂いの記憶を抱きしめて生きてゆく。


僕と彼女は大学で出会った。
歳が一つ下だが、家事も難なくこなすデキる女性だ。

彼女と最初に出会ったのはオンライン授業。
授業中、オンライン会議アプリであるzoom(ズーム)の画面で僕らは出会った。

最初は「可愛いな」と少し思う程度だったが、授業内での討論やグループワークなどを通して僕は彼女の内面にも惹かれていった。彼女と二人きりで話してみたいと思った。

それまではあくまで同じ授業を受けているというだけの関係性だったが、どうやら僕の大学での最初の友人が彼女の友人と知り合いらしく、そのラッキーな繋がりもあって運よく彼女のLINEを違和感なく手に入れることができた。

「多崎智哉です!授業同じだよね!これからよろしくー。」

送信。
特に違和感もないが、好意があるから何だか後ろめたい。心が浮ついているのが自覚できる。僕は意味も無くスマホを優しくベッドに投げつけていた。

彼女からの返信は至ってシンプルなものだった。
「大野麻里(おおのまり)です!授業同じ!よろしくね〜。」

名前にふり仮名をつけてくれているところに人柄を感じる。「たざきともや」とふり仮名をつければよかった。「タサキ」と勘違いされてしまうかもしれない。いやいや、大野さんは僕の苗字が何と読むかなんてどうでも良いに決まっている。

既読を付けて身体が固まる。どうでもいいことばかり気にしてしまう。これが恋というものなのか。恋愛なんてもう何年もしていなかったのに。

話を続けたい気持ちは山々だったが、何を話していいか分からなくなってしまっていた。異性と会話することが苦手な僕が、LINEだからと言って急に話せるようになるわけでもない。僕は早くも諦めかけていた。


しかし、事態はいい方向に急展開を迎えた。何も返せず既読スルー状態にしてしまっていた数日後、彼女のほうから連絡が来たのだ。

内容は授業の課題のことだった。僕はこの授業を選んだ1ヶ月前の自分のことを心底褒め称えた。よくやった、自分。

そこから、彼女と僕の距離は一気に近づいた。課題を一緒にファミレスで取り組むことになり、その夜には映画を観に行った。街はどこも感染症対策で自粛ムードだから人はそこまで多くなかった。お互いほとんどマスクもしていたため、彼女の顔があまり見えなかったのは残念だったが時間を共有できたというだけで幸せだった。

そして、早くも2回目のデートで僕は彼女に付き合ってほしいと告白した。彼女は想定外だったのか、かなり驚いた表情をしていたがOKしてくれた。僕に数年ぶりに彼女ができた。

それから1年以上、僕は彼女と多くの時間を一緒に過ごした。僕も彼女も大学生になって一人暮らしをしていたので、同じ授業の日にはどちらかの家で一緒に授業を受けるというのが恒例になっていた。

授業が終わり、課題を一緒に取り組み、「疲れたね〜」なんて言って近所のスーパーやコンビニにデザートと日用品を買いに行く。彼女が料理をしてくれたり、大学が休みの日には美味しいと噂のオムライスを一緒に食べに行ったり、授業で知った日本の歴史的な庭園を一緒に見に行ったり、水族館でペンギンの可愛さについて語り合ったりと、カップルとして充実した日々を過ごした。こんな幸せな生活が1年前の僕には予想もつかなかった。

それでもやはり、人は別れというものから逃れるのは難しいらしい。僕と彼女は生活を重ねていけばいくほどに、少しずつ価値観の違いが明確になり、それをお互いが許せないシーンが目立つようになっていった。

いわゆる「ケンカ」は、小さなプライドや、理不尽によるものも多かったが、それは何とか解決ができた。しかし、明らかな価値観の違いについてはそれを理解し合うというのはその時の僕らにはできなかった。

そして、夏の暑さを何とか乗り切ったがそれで力を使い果たした。

紅葉が満開になるのを待たずに、僕と彼女は別れを決意した。

あんなに大声をあげたり口調を強くしたりしていたのに、いざ離れると決まるとお互いが涙を溢れさせた。こんなに涙を流すことのできる相手と別れることを選べるのだから、人は不思議なものだ。

今でも、僕は彼女にプレゼントした香水の匂いを鮮明に覚えている。付き合って初めての彼女の誕生日にあげたプレゼントだった。ネットで「めちゃくちゃいい香り」と評判の良い香りだったし、実際に彼女にとても似合っている香りだと思った。僕の中では、その香りを嗅げば、良くも悪くも彼女と過ごした日々を思い出す。

面白いのは、後になってその香りを嗅いで思い出すのは彼女自身だけではないということだ。彼女自身だけでなく、近所のスーパーやコンビニ、駅から彼女の家までの帰り道すら、その香りとともに蘇る。

別れ際に、彼女は泣きながら僕にこんなことを言った。

「これをきっかけに私、この香りを嫌いになったりしないといいな。」

僕は「そんなことあるわけないよ。」と本当にそう思っていたことを言葉にした。

「分からないよ。香りは私たちを裏切らないけれど、私たちは香りを裏切る。いつだってそう。小さい頃に好きだった食べ物が、大人になるにつれて好きではなくなることがあるでしょ。でもそれって、食べ物の味が変わったわけじゃない。人間の味覚だったり、その食べ物に関連する思い出があって、それで苦手になったりする。香りもそれと同じで、裏切るのはいつも私たち人間。」

「私、別れるのを決めたけど、それを今更変えるなんて野暮なことはしないけれど、それでもやっぱり智哉と離れるのは辛い。智哉は私にとってきっと、もしかしたら、分からないけどなんか、私にとっての正解かもしれないから。」

彼女から言葉が溢れ出る。

「だからそんな自分をいつか、恨む日が来るかもしれない。何で智哉と離れたんだろうって。そしたらこの香りも、香り以外の、今はまだそれが何かは分からないけど、私の中の大事な何か色んなものも、変わっちゃうような気がする。」

僕はその時、悲しいような、嬉しいような、でも何だかやるせない、苦しいような、よく分からない気持ちになったことをよく覚えている。

僕は、今もまだ、この香りを好きでいる。
彼女のことを思い出してしまう時、少し胸が痛むけれど、それも含めてやっぱり僕はこの香りを愛している。この香りは、大切な時間や場所に戻るための特別な扉なんだ。

彼女は今、どこで何をやっているか僕にはもう分からない。

僕ももう、新しい道を歩み始めている。社会では新型コロナウイルスもやっと飲み薬が普及し、毎年ある程度の人数が感染するインフルエンザのような扱いになった。今では大学病院と連携した上でデータ分析をし、それに基づいて政府や地方自治体に政策の考案などをする専門機関で研究を進めている。

彼女も、きっとどこかで頑張っている。

あれから、香りというものに対して意識することが増えた。あれから、色んな新しい香りにも出会った。社会や環境も大きく変化した。それでも、あの香りが僕にとって大切な香りであることに変わりはない。


"香りは私たちを裏切らない。"




淡く切ない匂いの記憶を抱きしめて、僕はこれからも生きてゆく。



End.

※この物語はフィクションです。



Desimprovon Bisou
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