正解か間違いかじゃなく、自分で見つけ出した答えかどうか。
個人の人生を考える上では、「正解」か「間違い」かという議論は、あまり必要ないんじゃないかと思う。
必要が無いというよりは、あまり意味が無いというほうが正しいかもしれない。
どういうことかと言うと、そもそも個人の人生において決まった正解なんていうものは無く、社会がその正解を高らかに宣言しているとすれば、それはきっと単なる幻想か都合の良いポジショントークだ。
どんな道を選んだとしても、人生は寿命まで続くし、寿命まで生きているうちは何かしらをしなければならない。生まれてきた意味を考える人もいるが、私の答えは「そんなものは無い」だ。
そもそも「意味」という概念と言葉を生み出したのは紛れもなく人間であり、それ以前の問題である「生命の誕生」に意味づけをするというのは無理があり、それでも何らかの意味を見出したがるというのは、人間の単なる欲求でしかない。
例え全ての創造主である「神」という存在がいたとして、その神が「意味」を考えてこの世界や人間を生み出したのだとしても、こんなにも壮大な世界を生み出した神の意図を、人間ごときが過ごしてきた時間や歴史で読み解けるほど、神は小さなものでは、きっとない。
さらに言えば、「神」が何らかの意図を持って人間を生み出したのだとすれば、人間が自らの生まれてきた意味などを思考しなくとも、勝手に世界は神の思うままに回っていくだろうし、人間にそれを知る術は無い。
だから、人間ごときが自らの生まれてきた意味を知りたいなんて思ったとしても、繰り返すようにそれは単なる知的な欲望に過ぎず、それ自体は考えることを謳歌する人間として「人生万歳」ということにはなるものの、正解に辿り着けるかどうかで言えば、そもそも正解などというものは無いようなもので、それに辿り着くのは不可能であるということを言いたい。
しかし幸い、私たちは自らの人生をある程度動かすことができる。与えられた環境やさまざまな要素の中で、そこからどんな道を切り拓くかということについては、それなりの自由を確保されている。今この文章を読んでくださっている瞬間に、目をこすってもいいし、頭を掻いてもいいし、香水を全身にふりかけてもいいし、文章を読むのをやめてスマートフォンやパーソナルコンピュータをゴミ箱に投げ捨ててもいい(パーソナルコンピュータはうちのゴミ箱に入らないですという反論はグッとおさえてほしい)。
そうした一つひとつの自分の動きが、行動となり、感情となり、社会の中の自分というものを作り上げていく。時代的に見ても、そもそもの与えられた生活環境や社会環境というものが数百年前と比べれば圧倒的に進化していて、長い歴史が人間に対して残した自由という欲望を見事に加速させている。お金持ちの家に生まれるとか、貧乏な家に生まれるとか、優しい親のもとに生まれるとか、あまり優しく無い親のもとに生まれるとか、運でしか語れない要素が無限に存在する一方で、決して運だけでは語れない要素が存在しているのも事実だ。
だから考えることには意味がある。考えることで自分の動きを変えることができるからだ。でもその考えるという人間に与えられた大切な能力を、正解のない幻想としての正解を見つけるために無駄に時間を費やすのはあまりにもったいない。人生はそんなに長くはない。
正解が無いのだから、大切なのは自分自身で正解を作ることだ。
拾うのではなく、やってくるのを待つのでもなく、正解は自分の考えから生まれ出る。考えるから生まれ、生まれるからそれを見つけることができる。
それを「答え」と呼んでいいだろう。
正解とは「正しいこと」だ。
正しいことなど、ハナから人生には与えられていない。
答えに正解があることもある。
だけど人生の答えに正解はない。
「正解」と「答え」は似て非なるものだ。
人生を冒険しよう。
Desimprovon Bisou
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