絶対の生の次元は、とてつもなく何の支えもない場所にあるのでしょう。 預言者イザヤ、エレミヤ、バプテスマのヨハネが、ただひとりで、声を聞いていたような場所。 ヨブが、誰ひとりとして理解できないところで天に向かって問いつづけていた場所。 詩人が、ただひたすら神に救いを求めつづけ、ついにその応答を受け取った場所。 使徒ヨハネが、パトモスの孤島で再臨のキリストを仰がれていた、その場所。 藤井先生が、最愛の人を失われた時におられた場所。 私の師は、そこにおられる気がする。物理的なこ
先月初め、ドキュメンタリー映画『劇場版 荒野に希望の灯をともす』のリバイバル上映があると知って、観に行った。 21年間、中村哲さんの生きる姿を継続して追い続けてきた映像記録のなかから、これまで公開されてきたものに未公開映像等も加えられ、劇場版として再構成された作品。 中村哲さんの姿には、まるでキリストが写っておられた(追記:内的な意味です。宗教のことを言っているのではありません)。 「生きた伝統」という言葉の響きからは「真理の継承」が遥かな世界から重なった。谷津監督は「中
見つめあうことの必要性 自分が「何様」かでいるうちは、何も見えてこない 一番下の底まで降りたとき、俄然輝きだす 見上げるしかできないその場所で初めて 見上げるしかできないものを見る † 何様はいらない 天の宇宙に息づく永遠の塵になりたい 無方の空に 散らばりたい
憧れとは 揺れうごく波を住みかとして 時の中にふるさとを持たないこと。 希念(ねがい)とは 日常の時間が 永遠なものと低声(こごえ)で交わす対話。 そして 「生きる」 とは 昨日(きそ)の中から すべての時間のうちで最も孤独な時間が立ち出でて ほかの姉妹らとは違う微笑を湛えて 永遠なものに顔を向けて沈黙するときまでのこと。 ライナー・マリア・リルケ
私のタロットは、師なしではなんでもない。ゆえに私はたびたび、師の名前を記します。 師が見出したタロットに秘めたる力、働き、その真実。真理。 それらによってはじめて私はタロットを読み解くことができる。 それはただ覚えて学ぶのではなく、実際にタロットカードが象徴する「世界」を自ら体験し、体得する以外には、本当には読み解くことができないようになっているから。 私は何のカリスマも持たない。 タロットにカリスマ = 働き があるだけ。タロットという「世界」によって読めるだけ。