ひとり一粒の場所
絶対の生の次元は、とてつもなく何の支えもない場所にあるのでしょう。
預言者イザヤ、エレミヤ、バプテスマのヨハネが、ただひとりで、声を聞いていたような場所。
ヨブが、誰ひとりとして理解できないところで天に向かって問いつづけていた場所。
詩人が、ただひたすら神に救いを求めつづけ、ついにその応答を受け取った場所。
使徒ヨハネが、パトモスの孤島で再臨のキリストを仰がれていた、その場所。
藤井先生が、最愛の人を失われた時におられた場所。
私の師は、そこにおられる気がする。物理的なことではない。
連絡が取れる人がいるとか、誰かがいるとか。そういう次元じゃない。
だからそこに行き着いた(連れられた)人にしかその場所はわからない。とてつもない場所。想像を絶する、たったひとり。たったひとりにおいて生まれた絶対無が、絶対有を可能にする。
一昨日、ディスクのプリンセスが示された時、少し心細くなった。
ひとりで、このように歩いていけるだろうか?と思ったのだった。
とてもひとりを感じた。彼女が立っているのはたったひとりで歩いていく場所。
このカードを見て、こんな気持ちになったのは、私にとってははじめてだった。
その感覚が実はこわかったけれど、きっとその感覚こそ、プリンセスの立っている場所の空気なのではと今は思う。
たったひとりだからこそ、心の底から本当にすがれる。すがるしないところ。そこにしかない空気。
そのかすかな、におい。私には、本当にかすかなにおいでした。
自分の生は踏み石になることだと思う。
師が見出されたものを引き継ぐ人たちのための踏み石。危なっかしい石ころでなく、その人たちがしっかり踏んで進めるように。
小さな踏み石でも踏み石として確立しなければ。
黙って取り組む方がいいのをあえて書くのは、責任を負うためかもしれません。
決して声の届かないところにおられる師に向かって、私は泣きながら、それでも大声で呼びかけたい。
復活前のイエス様についていた弟子はこのような思いだったのだろうか。
私はどんどん無様になってゆきます。