グリーフ哲学をーうつろうということ
夫が逝ってしまってから10年近くになりますが、夫への感情が変わったかと言えば、変わったとか変わらないとかいう言い方では表現することはできません。感情は量的なもので言い表すことはできないし、それを一つの感情で言い表すことはできないから。
感情そのものは、自己を展開し、したがって絶えず変化する一つの生き物である。そうでないとしたら、感情が私たちを少しずつ一つの決心へと導くことは理解できなくなるだろうし、つまり私たちの決心は即座になされるということになるだろう。しかし、感情が生きているのは、感情の展開される場をなす持続がその一つ一つの瞬間ごとに相互に浸透する持続だからである。(H.ベルクソン『時間と自由』、岩波文庫)
感情を規定したり、分析するというのは「じつは感情の代わりに、ことばに翻訳できる無生気な諸状態を併置しただけなのである」とベルクソンは言います。
感情がないまぜになって、とか、混乱してというのは、それが感情の生の姿なんだろうと思います。だから、整理してと言っても整理できるものでもないし、整理するものでもないのでしょう。
夫が亡くなった当初、悲しみだけではなく、まさしくいろんな感情がないまぜになって、何をして過ごしたというよりも、そのときどきの感情のまにまに生きていたように思います。
それを人は不安定だというかもしれないけれども、表向きの時間を気にせずに、そういう感情に身を浸したあのひとときは、今の私にとっては、とても濃密な時間であり、得難い時間でした。
感情はうつろうもので、いつかはそれが自然とまとまりながら、一つの方向に流れていき、また分散しては一つにまとまりを繰り返していくものだと思います。
確実に言えることは、感情がうつろうなか、その感情のもととなった彼との時間は、今でもずっと続いているということです。
逝ってしまった後も。
ずっと一緒に生きている。だからこそ、うつろうと言えるのかもしれない。
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