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やさしい哲学ーカントの世界観

 


「止まれ」の標識。自動車に乗っているとき、この標識を見たら、最初に頭によぎるのは、停止線の直前で車を一旦停止させなければいけない、ということ。「~ねばならない」というのは、私たちが世の中で生きていくのに欠かすことのできない、車と人とが共存していくための倫理に基づいたルール。

 だが、その前に、この「止まれ」の標識を、停止線の直前で一旦停止する標識として認識しなければならない。つまり、車道にあるこの逆三角形で赤い色のものを形状も色も標識として認識しなければ、車を止めることすら、頭に浮かばない。

 さらに言えば、「止まれ」という標識の真っ赤な色と逆三角形という不安定な形。その色と形状に抱く人間の生来の嗜好から、その標識に最大限の注意を必要とすることを、よしんば一旦停止のルールを知らないとしても、私たちは見た瞬間、判断している。

 認識、倫理、判断。カントはこの3つの事柄を、心の全能力として定義する。認識はもちろん認識能力、倫理は欲求能力。「~ねばならない」とは「善く在りたい」という欲求に基づくものだからね。判断は快・不快の感情が能力として考えられている。

 カントは、人間の能力には限界があって、自分のカテゴリによって見えるものしか見えてないという。カテゴリは概念を形成することに関わるので、文化的な背景によっても異なってくる。たとえば、何かで読んだことがあるが、マザランがある島に上陸した時に、その島のネイティブにとって、マザランの船の形と大きさが自分たちの船とは大いに異なっていたので、船が見えなかったらしい。子どもに見えて大人に見えないというのは、その逆かもしれないね。

 人間は普通に生きている限り、法則に則って生きている。認識とは合法則性を原理とするもの。神は理論的には認識できない。だけれども、倫理を考えるときは神の存在は必要となる。神という究極の存在があるからこそ、人間は「善く在りたい」という究極目的を原理としてもちうるんだ。

 カントが認識と倫理で理性の使い方を分けようとして著したのが『純粋理性批判』(『第一批判』)である。『実践理性批判』(『第二批判』)は、倫理的な理性について著している。

 批判とはドイツ語ではKritikであるが、一般的に使われている意味とはすこぶる異なる。ここでいう批判は「分ける」という意味があり、とりわけ混乱していた理性能力を二つに分けるということを意味しているわけ。

 そして、快・不快の感情に基づく判断力について著したのが『判断力批判』(『第三批判』)である。私たちは、認識と倫理だけではなく、その根源に生に基づいた感情がある。自然は超感覚的な何か合目的的なものによって統制されている。人間は自然の多様性のなかのひとつにすぎない。だから、人間にとって不条理に思えることも、自然にとっては合目的的であり、生命という根源的なステージからすると快なんだ。

 私たちが自己と呼ぶものを、カントは認識と倫理という二つの領域、そしてその二つを橋渡しする判断力という中間項の三つに分けて体系化したわけである。さて、これからの時代、フォーカスされるのは判断力であろう。世界では環境保護やSDG'sが唱和され、人間中心主義からの脱却が必要とされている。先行き不透明な時代に、私たちは何を指針として生きるのか。判断力がそのヒントとなるのではないだろうか。

 認識と倫理の橋渡しであり中間項として考えられていた判断力が、実はその二つの能力の根源にあるとしたら、、、

人生に役立つやさしい哲学ーカントの世界観

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