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グリーフ哲学をー闇があるからこそ

カントの『実践理性批判』の終わりに、こういう有名な文章があります。

くりかえし、じっと反省すればするほど常に新たにそして高まりくる感嘆と崇敬の念をもって心をみたすものが二つある。わがうえなる星の輝く空とわが内なる道徳律とである。この二つのものをわたくしは暗黒におおわれたものとしてまた超絶的なものとしてわたくしの視界の外に求めたり、憶測したりしてはならない。わたくしはそれを目の当たり見て、直接わたくしの存在の意識と結びつける。
(E.カント『実践理性批判』樫山欽四郎訳、河出書房)

カントは、ついで、物質としての人間は、生命力を与えられたあとに、それを遊星に返さなければならないが、自分の人格は、道徳律によって、真の無限へと価値が高めれらるとしています。ただ、わたしたちは悟性的な世界にいるので、これらのものに、必要以上の解釈を付け加えずに、それをそのまま自分の意識と結びつけます。

けれども、煌めく星も無条件に自分を律する心も、それを背景とした闇がなければ光にはなりえないのではないでしょうか。闇がなければ、光も感じえない。「闇でなければ、見えぬものがある」とは、どこかで聞いたようなセリフですが、闇が深ければ深いほど、そこに灯すかすかな光を感じるのではないでしょうか。

善も悪も、時代によって変わる相対的なものかもしれませんが、人間が人間として在るからこそ、善も悪も生じます。善というときに、必ず悪がそこになければ善とは言い得ないわけです。

悪もまたそこに善があるからこそ悪となります。自分のなかにある善も悪も受け入れたうえで、そこから先、人間としてどのように在るべきか問い続けることに、倫理の意味があるのだと思います。

闇だけではなく、光だけの真昼の考え方も、危ういものなのです。

弟が、夫が亡くなったときにかけてくれた言葉です。これが良いとか悪いとか、正しいとか正しくないとかそういう切り分けは、人をきつくさせるだけだよ。その言葉は、わたしを楽にしてくれました。

生もまた死があってこその輝く生であり、死もまた生があって輝く死となる。実は生と死の紙一重のところを、わたしたちは生きているのだろうと思います。



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