【退院から16週間】【「東南アジア青年の船」事業出航】自己免疫疾患(指定難病)とともに生きる (24) - JANGAN MALU-MALU! Living with an Autoimmune Disease
【退院から16週間】
2024年11月7日、2週間ぶりの膠原病内科の主治医の診察日。前回の診察でステロイド内服量を増量したため、普段よりも間隔を短くしての診察日となった。
まぶたや目の周りのむくみを伴った紅い皮疹(ヘリオトロープ疹)については、かなり改善してきたが、なかなか症状はなくならない。
また、この日の血液検査でのフェリチン値(臓器の炎症により著しく高くなる)やKL-6値(間質性肺炎の炎症により高くなる)、そして抗MDA5抗体値(筋症状のみられない皮膚筋炎に特異的な自己抗体で、急速進行性間質性肺炎になりやすい)も高くなっていて、なかなか改善がみられず、まだまだ心配である。
一方で、入院時から気になっていたその他の症状、声の枯れや手指の皮膚ががさがさと角質化する症状(mechanic's hand、機械工の手)などについては、かなり改善しあまり気にならない程度になってきた。
現時点での最大の心配は間質性肺炎の悪化であるため、内服薬の種類や量を調整しながら、引き続き頻繁な診察で様子をみていくことになった。現在、ステロイド内服(プレドニン(プレドニゾロン)、若干減量して12.5 mg / 日)、免疫抑制薬2種類(プログラフ(タクロリムス)6 mg / 日と、ブレディニン(ミゾリビン)増量して300 mg / 日)、となっている。
今回皮膚筋炎を発症したことと関連があるかは分からないが、体質の変化を感じることがある。以前と比べて、辛い食べものが食べられなくなってしまったのだ。以前は、世界各国を訪問すれば自らすすんで辛いものを探して食べに行き、自宅ではプランターでトウガラシを栽培し、自家製ラー油も手作りしていた。それが、退院後、大好きなタイ料理を食べに行ったときのこと、以前のようになんの躊躇もなく通常よりも辛めで注文したところ、なんと、辛すぎて最後まで食べきれなかったのである。それまでそんなことはなかったので、正直自分でも相当なショックを受けた。
「自己免疫疾患(指定難病)とともに生きる (4)」【血漿交換】で書いた治療、血漿交換により自分の血液中の血漿成分がすっかり他人のものに置き換わったことと関連があるのか、病気の症状や内服薬と関連があるのか、もしくは病気は関係なく年齢が上がって辛いものが苦手になってきたのかは分からないが、トウガラシの取り過ぎは身体に危険だというサインなのかもしれない。身体の正直な反応を大切にしていきたい、と感じた。
ただ、現在の治療に当たり食事制限がないのは幸いで、おいしいものをおいしく食べられる幸せをかみしめている。
【「東南アジア青年の船」事業出航】
2024年11月7日、診察の後、東京国際クルーズターミナルへ向かい、「東南アジア青年の船」事業の出航を見送った。今回の事業には、日本と東南アジア10か国の青年(18~30歳)200名弱が参加している、青年国際交流事業である。その中の一人は、31年前、私が大学3年生で日本参加青年として参加した際に一緒に参加していたタイ参加青年の息子Kである。
Kの家族は、タイの最北端チエンラーイ県チエンコーン郡(เชียงของ Chiang Khong)に住んでいて、家からは国境の雄大なメコン川とその向こう側にラオスが望める。2013年11月、私は彼らの家にホームステイし、当時小学生だったKも一緒に数日間を過ごした。彼らの家族は、タイとラオスの間の国境貿易会社を経営していて、従業員の多くはラオスから毎日国境のメコン川を渡って通勤してくる。Kの父親である私の友人が、「ラオスの若者を従業員として雇うことで、ラオスの若者の教育にも貢献したい」と言っていたのが印象的で、国境の小さな村で、国際社会の最先端に触れたように感じたことを覚えている。そんなKも立派な青年に成長し、アジア各国の希望に胸をふくらませた青年たちと一緒に、「にっぽん丸」船上で再会できたことは感慨深い。これからの1か月強、船内や訪問国(ベトナム、インドネシア)で、きっと人生に大きな影響を与えるようなたくさんの体験をしてくることだろう。
すがすがしい秋晴れの空の下、小さくなっていく「にっぽん丸」を見送りながら、親の世代から子どもの世代へ、国をこえた友情の絆が確実に受け継がれていることをうれしく感じた。
(「東南アジア青年の船」事業については、「自己免疫疾患(指定難病)とともに生きる (15)」【私の原点 (3)】を参照。)
(つづく)
(カバー画像:アジア各国の希望に胸をふくらませた青年たちをのせて出航する「にっぽん丸」)
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