読書感想文#4 「人類堆肥化計画」を読んで
こちらの著書ですが、私の頭が悪いもあり、理解するのがとても難しく、二回読み直した今でも恐らくほんの一部しか理解できていないと思います。
そして、この本の意味を本当に理解するには、里山地域と呼ばれる場所に住み、そこの自然と関わって生きてみる必要がありそうだと読み終わった今感じています。
今回ご紹介する著書は、奈良の里山で暮らす東千茅さんがお書きになった、「人類堆肥化計画」です。
まず、「堆肥」という言葉について解説する必要がありそうです。一般的に堆肥と呼ばれるものは、刈り草や落ち葉を積み上げて、場合によっては定期的に切り返しを行い、ミミズなどの小動物や微生物に分解してもらい、有機物を無機物にしていくことです。
(写真は、我が家の堆肥枠の中で刈り草が堆肥化している様子)
本書では、その一般的な意味と併せて、次のような意味でも「堆肥」もしくは「コンポスト(compost)」という言葉が使われています。
他の生き物たちと地位や持ち場を同じくする存在としての人類
生命に育まれ、生命を育むもの
本書のタイトルである「人類堆肥化計画」では、主に上記のような意味で用いられていると思います。
そして、著者が要所要所で述べているのは、「堆肥=生命に育まれ、生命を育むもの」になることに、この上ない悦びを感じているということです。
生命に育まれることは、生命を育むと同時に殺すことでもあります。草刈りは言うなれば大量虐殺だと著者は述べていて、それもそうだと納得しました。
そして、育むことと殺すことを繰り返していくことこそが「堆肥」そのものであり、それこそが悦びだと。
ここでいう悦びを本当の意味で理解するには、実際に里山地域に住んでみて、その自然と関わってみる他にないと、それを実践している私は思うのです。
特に、農耕という行為にはその悦びが満ちています。私も家庭菜園程度ですが、自分が育てた野菜を食べることはとても楽しく、悦びに満ちています。そして、農耕とは育むことと殺すことを重ねていった結果なのだと、本書を読んで気付かされました。
農耕は、他の生き物を餌にして作物や家畜を育むばかりでなく、育んだ作物や家畜を殺して食べるという、罰当たりな悦びを重層する営みである。(中略)手塩にかけて育てた稲や大豆や鶏を手づから殺して食べ、のうのうと生きてさらに彼らの子供に手をかける、ということ(後略)。
ところで、本書では、各章の間に、筆者が過ごす里山生活の春夏秋冬の様子が描かれています。私はこの描写の所々で深く共感することができました。
例えば、「春」にある筍を探す描写について。
見方にはちょっとしたコツがあって、一点の集中せず広域で地表を見てその中に捕捉するのである。実際、ひとしきり掘ってさあ帰ろうというときにもう一本見つかることがよくある。妙なものだが、帰り際のあの絶妙に散漫な集中具合が筍を探すのにはいいのだろう。
これに共感する、里山住人はとても多いのではないでしょうか。もう手にはいっぱいの筍を持っていて、持てるかもわからないし灰汁抜きもその分手がかかる。
けども、最後に見つけてしまった筍を掘らずにはいられない、あの感覚がこの描写でフツフツと浮かび上がってきました。そして、あのタイミングで筍を見つけてしまうのは、そういうわけだったのかと深く頷いてしまう。
話を本編に戻しましょう。後半では「生前堆肥」という言葉が出てきます。本書では以下のように説明されています。
<生きるために育む>腐敗が進み、
<育むために生きる>様態に変質すること
前半では、「堆肥=他の生き物たちと地位や持ち場を同じくする存在としての人類」として、人類を他の生き物と同じ地位のものとして捉えていますが、やはり人類が自然へ与える影響について他の生き物とは一線を画していることを述べています。そのために、人類は<育むために生きる>様態に変質することができます。
著者が生前堆肥を遂行する方法として、杉林を雑木林に変えていく方法を挙げています。雑木林では樹木の数もさることながら、多様な生物が育まれています。雑木林をつくっていくことは、まさに<育むために生きる>様態になることです。
確かに、私も里山地域に暮らして草を刈り、野菜をつくりそれを食す<生きるために育む>ことを繰り返してきて、畑に実る野菜と同じくらい、畑にやってくる蝶やカエルやカナヘビたちをとても愛おしく思えるようになってきています。次の様態に一歩足を踏み入れている証拠かもしれません。
さらに、私は自宅の庭以外にも畑を借りてそこで野菜を育てはじめていますが、はじめはカラカラだった土の上に、ひたすら刈り草を敷くことでその下に多くの虫たちが集まってきています。虫が生きている環境を自分がつくっていることに、ものすごい悦びを感じるのです。
キャンプなどのアウトドアを通じて自然を感じる喜びも素晴らしいことだと思いますが、小さくても生き物の住処となる環境をつくっていることで感じる悦びはそれに勝ります。そして、どんどんそれを繰り返していきたくなります。
先日も、生ゴミを処理している堆肥枠の中に大きなカブトムシの幼虫(と思われる)を見つけて大悦びし、新たな堆肥枠をつくる計画をはじめました。
私も、著者同様、生前堆肥となるっていくことをおすすめしたいと思います。その悦びになんの価値があるのか、それはわからないし、価値はないかもしれない。でも、それが地球環境を豊かにしてくのは確かな気がするし、これは飽きることのないエンターテイメントだと私は感じています。
さて、宣伝になりますが、来たる2021年11月13日(土)に、私の暮らす益子町に著者の東千茅さんをお迎えし、風景社さんによる、風景社セッションが開催されます。
私も僭越ながら、地域コメンテイターとして登壇させてもらいます。オンラインでのアーカイブ配信もありますので、より多くの皆様にご覧になっていただければ嬉しく思います。料金は、アーカイブ配信で千円です。
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第5回 11月13日(土)東 千茅 氏
二百年の里山、十全に生きるために
第2部ホスト:廣瀬俊介(風景社 環境デザイナー)
コメンテイター:伊藤奈菜(bio-landscape)
▷申込:https://peatix.com/event/1934685/view
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Chigaya Azuma
農耕者、里山制作団体「つち式」代表。一九九一年、大阪府生まれ。二〇一五年、奈良県宇陀市大宇陀に移り住み、ほなみちゃん(稲)・ひだぎゅう(大豆)・ニック(鶏)たちと共に里山に棲息。二〇二〇年、棚田と連続する杉山を雑木山に育む二百年計画「里山二二二〇」を開始。著書に『つち式 二〇一七』『つち式 二〇二〇』(私家版)『人類堆肥化計画』(創元社)
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