【読書感想】『千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話』
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・・・・・・どうやら、文学の場合、越えがたい言語や文化の壁というものはないのでしょう――――スタニスワフ・レム
あふれんばかりの情熱を持った人間に、不可能はないのかもしれない。本書を読んで素朴に感じたのは、そういうことだった。
とあるルーマニア映画に「辞書で頭をぶん殴られたような衝撃を受けた」著者は、それをきっかけにルーマニア文化にのめり込み、ルーマニア語の独学を開始、フェイスブックで大量のルーマニア人と友人になり、ついに自分の書いた小説がルーマニアの文芸誌に載るまでになる。
まるで漫画のような内容だが、これは現実の話だ。
読んでいて圧倒されるのは、著者のルーマニアへの愛とその熱量である。日本語で書かれた、まともなルーマニア語文法書は三冊程度しかないという状況で(その分、選ぶ余地もないので楽でもあるのだが)、著者は見事にルーマニア語で小説を書くまでに至る。
かつてインターネット黎明期には、「これから世界中がつながって、国家という存在は弱体化して、世界は一つになる」という楽観的な未来予想図が描かれたという。
しかし、世界は未だに分断されたままだ。むしろインターネットがより一層分断を促進した側面があることは、否定できない。
だが本書は、そんなインターネット時代の利便性をフル活用して、自宅にいながらにして、遠い異国の文化とつながるという離れ業ができることを証明した。それはかつて夢みられた「インターネットによって世界はひとつになる」という理想の世界の片鱗を見ているかのようだ。
最後にひとつ。本書のタイトルにある「引きこもり」とは何だろうか。読んでいて、少し考えてしまった。
世間一般的な定義に従えば「社会的参加を六ヶ月以上持たない者」が「引きこもり」とされる。
だが、本書を読んでいるとそこで定義される「社会」とは何だろうかと、私は疑問に思えてきた。
確かに、「社会」の定義を「自分の住む地域や国」とすれば、著者は間違いなく「引きこもり」になるだろう。
しかし、著者はルーマニア語で詩を書き小説を書き、ネットを駆使してそれらをルーマニアの友人に添削してもらい、果ては文芸誌デビューしている。「社会」という定義を地球全体にまで拡大すれば、筆者は引きこもりと呼ぶことは難しい。そう私は考えるのだが、どうだろうか。
著者を東欧文学の沼に引きずり込んだきっかけとなった『東欧の想像力』、ルーマニア文学の泰斗・住谷春也が書いた『ルーマニア、ルーマニア』なども併せて読みたい。
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