ネットにおけるハラスメント告発と、広田のプチ炎上について
まえがき
僕は先日、ここ最近にあったいくつかのハラスメント事案の告発とその反響に対して、自分の思うところをtweetしました。それに対して複数の方からご批判を頂戴し、複数の方にご不快の念を抱かせる結果となってしまいました。僕の投稿に賛意を示してくださった方にも何とも申し訳なく、また、ご批判に対する僕の応答も含め、全体として建設的な議論になるどころか却って無用な混乱を招く結果になってしまい、大変心苦しく思っております。ただ、ここで終わりにしてしまいますと本当に不快な思いだけが残ってしまうとも思いますので、あえてしんどい話題に切り込んで、いったいこのプチ炎上騒動はなんだったのか、個人的に検証してみたいと思います。
それは単に自分の身に起きたことを検証したいという気持ちからでもありますが、僕は以下の文章を通じて、ネットでのハラスメント告発にまつわる多くの賛同の声と、必ずしも全面的には賛同しかねる思いを抱いている方々との間に生じつつある認識のズレ、そしてそういった齟齬を乗り越えていく道筋、その可能性について検討したいと思います。したがって、この文章では個別のハラスメント事案についての言及はほとんどなく、具体的な問題の検証というよりは「演劇界を中心とした、ネットにおけるハラスメント事案の論じられ方」というやや観念的な内容になっておりますことを予めご了承ください。
なお、この文章は概ね前から順番に書いていったのですが、書いているうちに自分の考えが変わったり、あるいは友人、知人たちとの対話の中で認識が改まったこともあり、だんだんと主張の輪郭が変わっていくこととなりました。要約すれば、当初は表層的な反論から始まって、やがて問題の本質と思われる箇所の分析へと進み、そして大風呂敷を広げて話は終わります。ということで、またしてもとんでもなく長い文章になってしまいました……。特に前半部分は反発を覚える方も多いかと存じますが、何卒、最後までお読みいただけましたなら幸いです。
第一段階 表層的な反論
「当事者」という記述にまつわる問題
まずはご批判を頂戴したいくつかの点に関して、改めて検証してみたいと思います。まず複数の方からご批判をいただいたのが、
という出だし近くの文章です。この一文に関しては特に多くのご批判をいただきました。内容としては、「誰もが当事者として考えるべき問題だ」「当事者ではない、と言い切ってしまえる神経を疑う」「演劇界の全員が当事者だ」などといったものでした。それらのご意見に対して、ほとんど全面的に同意いたします。この点に関しては、ものすごく単純化して言えばただ一言、「僕はどの話題に関しても関係者ではないので」と書いてさえいれば、これほど問題視されなかったのかもしれません。そもそも僕が言いたかったのはこういうことです。「僕(広田)は、どの話題(事件/事案)に関しても(直接的な)当事者(関係者)ではないので一般的なことを少しだけ書きたい」これは問題に対する態度への言及ではなく、事件/事案の関係者の方々との距離の話をさせていただいたのです。
後半の「これは当事者間の問題でもあるでしょうし、それを受けとめる側のリテラシーが問われる問題でもあるんでしょうから…。」という文章は、「僕は事件/事案の直接的な関係者ではないが、当事者意識を持って考えたい」という意味で書きました。
もし反対に「自分はどの話題に関しても当事者なので…」などと書き始めてしまったら「事件/事案の関係者なのか?」との誤解を招いてしまったことでしょう。それは単純に虚偽です。僕は事件に直接言及できるような加害/被害の当事者/関係者ではありません。その場に居合わせた第三者でもありません。目撃者でもありません。つまり、事件/事案の直接的な当事者ではありません。そのことを、混乱を招かないためにも最初に示したつもりでした。しかしこれを、「事実関係の整理」としてではなく「記述に先立つ意識の問題」と受け取られた方から多くのご批判を頂戴したものと考えております。他人事だと思っているんじゃないよ、とのお叱りでしょう。仮にその解釈のもとでそれらのご批判を検討すれば、至極ごもっともな内容だったと思います。ですので、「当事者意識を持つべきだ」という種類のご意見に対しては、最初から僕は反対するつもりはございません。そもそも関係者でもない自分が図々しくもtweetを致しましたのは、僕なりの当事者意識があったからこそです。また、僕はかつて複数のハラスメントの事件/事案に関係者として関わった経験があり、その時の僅かばかりの体験からも、実際の当事者/関係者の方々が抱えているご負担というのはとてつもなく重いものと考えております。ですので、今回の件に関して自分が「当事者だ」と述べることや、「誰もが当事者」などという言い方を避け、上記のような書き方を選びました。
この記述に関しては、「当事者」という言葉が持つ多義性と、それをはっきりと明示できなかった僕の書き方によって混乱を生じさせてしまい、自分の力不足を痛感しております。すみませんでした。ハラスメントの問題は、誰がいつ加害者/被害者になってもおかしくないという意味で、万人にとって「当事者性」を備えた問題であり、したがって情報として触れるあらゆるハラスメント事案に対して常に「当事者意識」を持って考え、行動する必要があり、実際の「事案/事件の当事者」になった時にはしかるべく対処すべきである。――そんな風に考えております。「当事者」という単語については今後は十分に注意して使用してまいりたいと思います。
「マンスプ」批判に応えて
僕の当初のtweetに対して「マンスプ」、「マンスプレイニング」という言葉もしばしばご批判として賜りました。ただ、正直に申しましてこれは僕にとってあまり腑に落ちない議論でした。ここでは、知乃さんから再度、直接のご批判・ご質問を賜りましたのでその返信、に、なっていないようにも思いますが、以下、それを中心として思うところを述べたいと思います。
まず、僕はこのご発言の前提となっている認識を十分には共有できない、ということを白状しておきましょう。確かに、僕の勉強不足はあるでしょう。これまでの人生で幾度もマンスプレイニングの「加害者」になったことがあるのでしょう。そして今回の僕の発言に関して、知乃さんをはじめとする複数の方がマンスプレイニングであるとお感じになった。それは事実でしょう。しかし、こうも思うのです。あの発言がマンスプなのか、否か。それを、どのような基準で、どなたが決定するものなのか。結局のところそれは、個人の感想に依るものではないか、と。僕には僕の「被害」経験があり、公にしていない苦しい思い、悔しい体験をした事実もございます。複数回、警察、弁護士の方々、会社・団体の代表の方々とハラスメント事案で戦ってきたという経験もございます。僕のことをよく知らないであろう方々がなぜ僕の発言を「マンスプレイニング」と一刀両断できるのか。その根拠が仮に「中年男性であること」であるならば、それは単純に性差別とエイジズムに基づいた判断に過ぎないのではないでしょうか。
もちろん、加害/被害関係が明らかな場合であれば、被害を受けた方の「感想」が優先されるのは当然のことでしょう。ただ、僕が想定していた読者は女性や若年者に限定されていたわけではありません。広く、一般論として申し上げたのです。被害者が男性であり、加害者が女性である場合のハラスメントも当然、世の中にはございます。様々なケースがあるのです。ですから、ご不快を感じられた方々の感想としては確かに「マンスプ」発言が存在したのでしょうが、そういった感想を抱かなかった方々にとっては「マンスプ」など存在しなかったかもしれないのです。いずれにせよ、僕は個人的な感想を盾に他者の言論を封殺しようとするかのごとき発言をなさることに対しては、全面的には肯定しかねる思いがございます。
人権について勉強せよ、とのご指摘も複数の方からいただいたのですが、僕が人権についてこれまで学んできたところに拠れば、言論の自由はそれこそ命に関わるほど決定的に重要な権利です。決して軽んじられるべきではありません。ですので、極端な話、僕は言論の自由が大きく毀損されるぐらいならばマンスプレイニングが撲滅されることなど望みません。撲滅を目指すべきとも思いません。もちろん、社会からマンスプレイニングを始めとした不快な言説/現象は漸減していくことを望みますし、自分もそういった言動には注意を払っていかなければならないと思います。また、寛容のパラドックスの議論からも明らかなように「言論の自由」への寛容さを盾に誹謗中傷や差別的発言などが許容される事態を招くことがあってはならないとも思います。しかし仮に、マンスプレイニングという現象を誰かが恣意的に事実認定して他者に押し付け、それと見なした言説の撲滅を目指すことによって言論の自由を大きく損なうことになるのならば、それこそ「角を矯めて牛を殺す」ようなことになってしまうのではないでしょうか。
ご案内の通り、マンスプレイニングという言葉が自由な言論を抑圧し、短絡的な男性憎悪(ミサンドリー)と年齢差別(エイジズム)に堕する危険性を孕んでいることは、以前より繰り返し喧伝されていることです。したがって、畏れながらこの言葉をあたかも守るべき法律ででもあるかのように濫用することは厳に慎むべきであるかと存じます。
僕は相手が誰であれ強圧的な要求に応じるつもりは一切ありません。誰かに思想を強要されるなんて懲り懲りです。何を学び、何に誓いを立てるかは僕の自由です。
アマヤドリに対するご批判に応えて
過去も現在も、知乃さんに対して何の恨みもありません。むしろ敬意を持ってお話をさせていただいているつもりです。ただ、「私に同意してばかりではなく」などというご批判を頂戴するには及びません。知乃さんに同意できない点も多々あります。たとえば、最初の返信の際にはあえて目を瞑りましたが、
とのご発言には全く同意できません。内容に対しても、あの文脈でこのような言葉を発するという行為に対しても同意できません。それどころか、これは許容しかねるレベルの誹謗中傷だと感じます。劇団員の名誉を毀損するご発言であると感じます。「アマヤドリは人権意識のない」? 僕個人のことならいざ知らず、知乃さんにアマヤドリの、劇団員たちの、何がわかるというのでしょうか。僕たちの取組みの、何をご存知だというのでしょうか。一度も会ったことがない人、関わったことも、調べたことも無い団体に対して、かくも断定的な批判をする権利が、一体どこから来たというのでしょうか。見たところ、知乃さんのこのご発言を諌めている方が誰もおられません。それも大変、危険な兆候かと存じます。
そもそも、広田という個人の発言を問題視したからといって、その人物が所属する集団すべてにその問題点を敷衍し、否定するという思考の様式は、畏れながら差別主義的と言う他ありません。まさに現在進行形で「国家指導者が悪いことをしているのだから、すべての◯◯人は悪いのだ」といった形の差別が横行してしまっている渦中にあって、そのような短絡的な決めつけに対しては細心の注意が払われるべきではなかったでしょうか。
このご発言に関しては撤回の上、誠意ある謝罪をいただきたく存じます。
もちろん、僕は言論の自由を尊重する立場ですから、この程度の発言で訴訟だのなんだの申すつもりは毛頭ございません。ネットでの誹謗中傷が人権問題として取り沙汰されている昨今ですので一言、申し上げた次第です。ですので、謝罪をしていただかなくても結構です。無視していただいても結構です。ただ、僕はこの記述に関しては寸毫も同意するところは無い、ということだけは明確にお伝えしておきます。
【後日追記】ちなみに、その後、現在に至るまで上記のご発言に関する撤回・謝罪、あるいは説明に類するようなご連絡は一切、頂戴しておりません。私はこの撤回・謝罪の要求を今も取り下げておりません。
第二段階 不毛な議論のその先を
……と、まあ、ここまで書いてみて、僕はどうしようもない徒労感を感じている自分に気が付きました。いや、違うぞ。全然、違う。当初、言いたかったこととも、今まで自分がもの申してきたスタンスともまったく違う。そもそも、最初のご批判を頂戴したときから、僕はこの「論争」のようなやりとりには本質的な対立はないのではないか、と感じておりました。僕は最初の文章から、ネットでのハラスメントの告発、metoo運動に対してはっきりと肯定しており、その点に関しては何の異論もありません。一番に批判を受けるべきは加害者である、というご批判に対しても、すでに謝罪の上で全面的に賛成しており、そこに関しても争点はもはや残っておりません。
では、このやりとりは何なのでしょう。僕の記述そのものや、あるいは記述の方法に対してのご批判、反発というものの中には、残念ながらとても建設的とは思えない内容も散見され、それらのご指摘に対して表面的な論理で応答するのは、これまた建設的とは思えません。上述したような稚拙な「反論」では、ご指摘をくださった方々の本当に言いたいことを何も汲んでいない、問題の本質をまるで掴んでいない空理空論になってしまっているのではないだろうか、そう感じるのです。
まず、これだけ複数の方からご指摘をいただいたのですから、僕の記述そのものの中にご批判を招く要素があったことは間違いありません。ある方は、
とお書きになりました。また、別の方は、
とまでお書きになりました。この種の決めつけは複数散見されましたので、何もこの方々だけが極端なことをおっしゃっていたわけではありません。僕にも曲解と思われるご批判に対してはスルーを決め込む権利があるようにも思いますが、いや、しかし、です。ここではあえてそういった心情に抗って、この方々のご指摘から問題を考え直してみたいと思います。むしろご批判を更に一歩進めて「広田の発言はすでに性暴力の加害である」という意味のご批判を、少なくとも、ご不快を与える部分があったことは間違いないと真摯に認めた地点に立って、再度、考えてみたいと思います。
配慮される人、そうではない人
今、この種の言論の中で流れているのは言うなれば「被害者ファースト」とでもいうべき価値観のように思います。それはつまり、ひたすら被害者の声に耳を傾け、否定せず、疑わず、時に代わりに戦い、加害者を断罪し、加害を許容してきた社会に対して疑問を呈し、声をあげ、世論を喚起し、被害者に寄り添い、ゆくゆくは大きく社会を変革して被害者の心理的安全が少しでも拡大していくように、そういった世の中に少しでも近づいていけるように一歩でも前進していくこと、――なのではないかと思います。本来、配慮されるべき立場にあるにも拘らず、不当に配慮の対象から外され、無視され、疎外されてきた方々の声に耳を傾けようとする考えを、僕も否定する気持ちはありません。
確かに、従来の演劇界には強い男性中心主義があり、権力者本位の考えがあり、暴力に対して酷く「寛容」な部分がありました。法律の整備は十分でなく、行政がまともな対応をしてくれないことも多く、周囲の助けも、理解もない。もしくは、全然足りていない。普段キレイ事を言っていた人たちがイザとなれば逃げ出すこともままあり、権威ある人に立ち向かっていく勇気を持った人間はあまりにも少ない。言うなれば、加害者側の「やったもん勝ち」の社会であったと思います。そこには酷い人権侵害が横行し、多くの演劇・映画を志す方々が心身をボロボロにされて去っていかざるを得なかった。そういう現実が紛れもなく存在してきたものと思います。僭越ながら僕自身もそういった現実の前に歯がゆい思いをしてきた経験もございますし、また、痛烈な反省とともに無自覚に自分が行ってきてしまったハラスメント、とりわけパワー・ハラスメントの悪質な加害について思いを致さなければなりません。そして、誠に遺憾ながらそういった旧弊を備えた社会が現在でもかなりの部分温存されてしまっており、変化は、ほんのわずかしか起きていないように思います。
「やったもん勝ち」のおぞましい社会に抗って、「被害者ファースト」の立場が、「不当に無視されることに断固抗うべし」とする考え方が、今、多くの方々の血の滲むような努力の結果として徐々に賛同を集め始めたものと思います。わずかづつではありますが、変化の兆しが感じられるようになってきたのだろうと存じます。そういった流れの中で、僕は「被害者ファースト」の考えに対して、ある意味で強烈なブレーキをかけるような発言をしてしまったのかもしれません。無論、そのような意図はありませんでしたが、結果としてそういう状態を招きかねない発言を行った。少なくとも、そのように解釈されたことは間違いないでしょう。僕も当初からそういった懸念があることは認識しておりましたので、「ブレーキをかけてるわけじゃないんですよ」という但し書きを加えながら発言したつもりでしたが、まったく不十分だったと言うことでしょう。そこに関しては大いに認識不足を反省し、考えを改めて参りたいと思います。
僕へのご批判を書いてくださった方の中には、あるいはダブル・スタンダードと感じられるような形で論理を展開なさったり、あるいは批判の矛先を「記述の内容」から「僕の態度」へ、さらに「僕の社会的属性に対する偏見」へとスライドさせていかざるを得なかった方もいらっしゃったように思います。そういった現象は、一見、破綻した論理のようにも見えましたが、実は僕の無自覚から来る「上から目線」が、記述の「用意周到」さによって巧妙に隠蔽されていたために、引き起こされてしまったことなのかもしれません。
そもそも僕が主張したことの中には、「冤罪を生まないように注意しよう」「誹謗中傷には抑制的でいよう」「ネットが私刑の場になってしまわないように警戒しよう」といった内容、意図が含まれていました。これらの主張は極めて常識的な話であって、その内容自体には目新しさも、過激さもありません。普通のことを普通にいっているだけなら、ああ、そうだね、とスルーされても良さそうなものですが、実際にはそうなりませんでした。
しかし、考えてみれば当然のことだったのかもしれません。「やったもん勝ち」の暗黒社会の内部において(しかも、おっさんの「権力者」が)「10人の真犯人を逃すとも1人の無辜を罰するなかれ」などと主張すれば、それは「加害者への加担」「やったもん勝ちでいいじゃん」「9人の真犯人を逃してあげようよ」という意味に解釈され、受け止められてしまったのかもしれません。そのような前提に立てば、「広田は普通のことをいっているだけじゃないか」というご意見と「つまりこの方は加害者側の人間ということですよね」という正反対にも思えるご意見が、僕の同じ発言を巡って展開されたことの意味が、少しは見えてくるように思います。
要するに、「やったもん勝ち」の暗黒社会を変えるべく「被害者ファースト」の流れがようやくにして起こり、近年、わずかづつ演劇界にも変化の兆しが出てきている中にあって、広田はその流れに棹さすような発言を行い、大いにご不興を買った。そんな構図が、多くの方のご批判を招いたことの背景に存在していたのではないでしょうか。今はそのように考えております。
上から目線、再考
そういった認識のもとで、再度、マンスプレイニング、上から目線である、見下している、などといったご批判について検討してみたいと思います。広田としては自覚を欠いていましたが、結果として、そのようなご批判を複数頂戴することとなった事実から再度、出発してみたいと思います。では、上から目線だ、というご批判の核心はいったいどこにあったのでしょう。どうして広田の発言は「上から目線」だと受け取られてしまったのでしょう。おそらく、その原因については大きく五つの要素があったと思われます。
広田が思っている「自分の立場」と、ご批判になっている方々から見た「広田の立場」との間に大きなズレがあったこと。誰が言っているのか問題。
広田が想定したtweetの読者と、ご批判になっている方々が想定した読者との間に大きなズレがあったこと。誰に言っているのか問題。
そもそも広田という人間が根本的に上から目線の偉そうな人間であり、態度の悪さが際立っていた。
とにかく広田が気に喰わない。
中年の、男性の、高学歴(?)の、権力のある立場の人間が意見する時点で上から目線。
それぞれについて検討していきたいと思います。まず初めに比較的結論が明らかであると思われる3)4)5)について片付けてしまいましょう。3)については、自分の性格の悪さ、態度の悪さをますます自覚して、今後とも絶えず我が身を振り返りながら反省して生きて参りたいと思います。すみませんでした。4)については、検討しようがないので割愛します。僕は比較的、自分の意見を思うまま言って暮らしてきましたので、方々に僕を嫌っている人がいることは承知しております。それに、人には誰かを嫌いになる権利があるでしょうからね。5)については、そういった見られ方をするという自覚を持ちつつ、無自覚のうちに自分がまとう権威、権力、暴力性について細心の注意を払って生きて参りたいと思います。なお、その他、単なる差別と偏見に基づく批判に関しては無視します。
広田が誤認した自分の立ち位置
まずは、「1、広田が思っている『自分の立場』と、ご批判になっている方々から見た『広田の立場』との間に大きなズレがあったこと」、要するに「誰が言っているのか問題」について。
何度か書いておりますが、僕は二十年ほど演劇に携わってきた中で、これまでに何度かハラスメントの問題に関して、当事者に大変近い立場で関わりを持ったことがございます。他ならぬ僕自身の発言、態度に対して「パワハラなのではないか?」というご懸念を頂戴したこともありますし、また、被害者の方の支援をする立場になったこともございます。弁護士を介して示談に至るまで話し合いをさせていただいたこともありますし、加害者(と思われる人)に対して個人的に抗議をしたり、団体全体に抗議をしたり、あるいは、独断で私的な制裁を加えたこともございます。そのことが原因で、複数の団体、複数の個人の方と絶交になりました。もちろん、いい思いばかりではありませんでしたが、それでも、そういった抗議を行ってきたことを全体としては後悔していません。
団体の主宰、あるいは演出家という立場ですので、公演終了後に参加者の方から「実は公演期間中にこういった問題がありまして……」などといった相談を受けることもありました。その都度、自分なりに当事者意識を持って主体的に問題に取り組んできたつもりです。むしろ、劇団の外部の問題に関してさえも無闇に首を突っ込み、「あなたには関係ないでしょう?」「なんで広田さんにそんなこと言われなきゃいけないんですか」「君が口を出す問題じゃない」などという批判を受ける程度には、出しゃばってきたという自覚もございます。
また、ハラスメントの問題に関して他団体の方ともお話をさせていただき、誰でも使えるオープンソースのガイドラインを作りたい、ということも考えておりました。現在、アマヤドリも劇団としてその準備を進めている最中です。
アマヤドリの劇団としての取組み
劇団員たちの名誉のために少し手前味噌なことを書かせてもらいます。アマヤドリでは以前よりハラスメントの問題について主体的に考え、これまでに何度となく話し合いの場を設けて参りました。誰がいつ被害者になってもおかしくないし、加害者になってもおかしくない、という当事者意識を持って、幾度も討議を重ねて参りました。その中で生まれた成果として、アマヤドリではもう何年も前から、各公演ごとに複数の「コンプライアンス委員」を事前に定めて関係者に周知し、稽古・公演期間中に被害が生じた際には気軽に相談できる体制を作り、運用してきました。※当初は「ハラスメント委員」という名称だったのですが、「それではまるで委員がハラスメントを起こすようではないか」ということから名称を変更した経緯もございます。
委員は各公演ごとの人員とは別に常任の者も設け、このメンバーを中心に現在、ガイドライン作成を行っております。コンプラ委員はジェンダー・バランスにも配慮して可能な限り両性のメンバーを配置し、また、「委員ではない人にでも、誰か劇団員で一番相談しやすい人に相談してください」と客演さんも含めて周知し、「泣き寝入り」がなるべく起きないように配慮してきました。誰にでも相談してよいルールなのになぜわざわざ委員という立場を定めたのかというと、窓口を決めておかないと相談者が誰に言えばいいのか迷ってしまうこともあると考えたからです。なるべく、相談のハードルを低くしたいと考えたのです。
コンプライアンス委員は上がってきた相談に対して個人、または委員同士の相談によってどう対処するべきかを判断し、内容によっては主宰者に対して情報を非開示にする権利を持っています。これは広田自身がハラスメントの加害者になった場合に、被害者の心理的安全を担保するための仕組みです。
また、ストーカー被害の問題に関しても団体として主体的に取り組んで参りました。座組内にストーカー被害を受けた方がいらした際には、劇団員をはじめとして客演さんを含めた座組全体で相談の場を設け、団体としてストーカー問題と戦う覚悟を固めました。具体的には、被害者の方への安全な住居の提供、稽古場・劇場への送迎(絶対に一人で行動させない)、専門家への相談とその指示の徹底的な履行、ということに関して劇団として取り組みました。その時の座組のメンバー、劇団員たちはそれらのことを当然のこととして進んで協力してくれました。もちろん、アマヤドリの取組みが最上のものだとは申しません。大いに不完全で改善し続ける努力が必要だと考えています。しかし、「アマヤドリは人権意識のない」などと言われてしまっては、黙っていられない思いもございます。
ただ、このような経験の中で、自分の中でハラスメントの問題に関していつしか「被害当事者」としての感覚が芽生え、おこがましくも被害者サイドに立って発言をする権利がある、そのような立場に自分がいる、という誤解が生じてしまったのだろうと思います。それについては真摯に反省をしなければなりません。僕のしてきた僅かな経験など、実際にハラスメント被害に遭われた方の苦しみには比べるべくもないからです。そういった点に関しては自分の驕りを認めて見つめ直し、心を改めて問題に取り組んでいきたいと思います。
ただ、ネット上で様々に広田個人、あるいはアマヤドリという団体に対して批判をなさっている方々が、すべて我々よりも主体的に、具体的に、当事者意識を持って問題に取り組んで来たのかと考えてみますと、些か疑問に思うところがないわけではございません。普段はキレイなことを言っていたはずなのに、イザという時になると関係ない顔をして逃げ出す方々とも、沢山会って参りましたので。
また、「広田は見下された経験が少ないから見下される人の痛みに鈍感なのではないか」とのご意見も賜りました。そうかもしれません。中年男性である僕は、日本社会においては比較的自分の特権に無自覚でいられるマジョリティの側に位置してきたことは間違いないでしょう。そのことには何度でも立ち返り、認識を新たにしておかなければなりません。
ただ、一方で、こういったご指摘が議論のすべてを決定づけてしまってはいけないのではないか、とも思います。確かに、マジョリティの側の人間が「逆差別だ」などと主張するのは全くのお門違いであり、僕のような人間は社会が根本的に抱えている強力な家父長制の権威、男性優位社会の非対称性を自覚した上でのみ発言すべきと思われます。ですが、僕が個人的にどのような差別や偏見を受け、痛みを感じて生きてきたかなど、ネットでの片言隻句からすべてわかるはずがないだろう、とも思ってしまいます。近年では、同情の格差においてむしろ最下層に位置する可能性がある存在としての「キモくて金のないおっさん」問題という視点も取り沙汰されており、そういった観点からも、ある空間において、誰が強者であり誰が弱者であるのか、ということを安易に決めつけ、偏見が横行する場所になってしまってはいけないとも思うのです。そうなってしまえば、そこでは再び被害者の取りこぼしが起こり、本来配慮されるべき当事者が不当に無視されてしまう現象が、また別の形で繰り返されるばかりではないでしょうか。したがって、僕自身のことはともあれ、年齢や性別、社会的立場だけですべてが決めつけられるような見方に対しては、心からの同意はいたしかねる部分もございます。
あ、そういえば劇場都市TOKYO演劇祭の議論で揉めた際には「与太話を信じちゃうなんて、やっぱり右翼だなあ」などといった、僕の思想信条へ対する明白な差別発言も受けたのですが(そもそも僕は「みなさんから見たら右寄り、保守寄り」といっただけで右翼を自認しているわけじゃないんですが)、やはり少なくない方から「敵」だと思われている僕に対してなされる暴言に関しては、多くの「人権派」の方を含めて見事にスルーされてしまいましたね。あの時には「感想はご自由ですが、差別はやめましょうよ」と思ったものです。
また、とある団体でとある事案に関する討議をさせていただいた際には、二十人対一人(広田)、中立二人、ぐらいの関係性であったのに「広田くんの言い方は怖いよ」などと指摘されて議論の本質からいきなり態度の問題に話をスライドされ、その時には、言い方や態度の話に還元しないで論理でやりとりしてもらいたいなァ、と悔しい思いをしたものです。事程左様に、思想信条の面に関して言えば、僕はこの十年以上ずっと演劇界の中では完全孤立といっていいほどの少数派(マイノリティ)をやらせていただいておりますので、僅かばかりは少数派の苦渋も味わってきたつもりでおります。
とはいえ、自分に対するこの程度の差別なら我慢いたしましょう。そんなことより言論の自由の方が大切です。三島の『文化防衛論』を引くまでもなく、言論の自由とは、耳障りの良い、心地よい意見が溢れる状態ではありません。最も聞きたくないような発言を許容してこその言論の自由でしょう。あ、でも僕は一線を越えたと判断したら訴訟でもなんでもやりますけどね。それは別として、です。
「上から目線」批判に応えて
閑話休題。続いて、二つ目の問題点について検討していきましょう。広田の上から目線はどこから生じたのか、という問題の二点目、「広田が想定したtweetの読者と、ご批判になっている方々が想定した読者との間に大きなズレがあったこと」つまり「誰にいっているのか問題」についてです。
上述したようなハラスメント事案の「当事者」としての経験の中で僕は、本当に多くの被害者の方が「泣き寝入り」という選択をするのを見てきました。「警察に相談しましょう」という提案をすると「いやいや、警察なんて! そんなオオゴトにはしたくありません」といった種類の否定をもらったことも一度ならずございます。最終的には弁護士を介しての示談に決着を見た事案においても当初は、「もう終わったことですから、あとは自分の中で処理します」というご意見をもらっていました。もちろん、被害者の方のお気持ちが何よりも優先されるのは当然のことですから、そういった場合にそれ以上の対応をすることは非常に困難です。被害者の方にそういった心理的余裕が無い場合も多いことかと存じます。しかし、僕としては勝手に、随分と歯がゆい思いをしたこともございました。何となれば、その場合、加害者の側はのうのうと無傷で、何事も無かったかのように過ごしていけるわけですから。
警察への相談、弁護士への相談、法テラスへの相談、という僕が当初のtweetでした提案に対して、「そんなことを知らないとでも思っているのか」「それで解決したら苦労はいらない」「警察や司法の場でセカンドレイプに遭う」といった種類のご批判を複数頂戴いたしました。それらの方法が万全でないことは僕も経験上、承知しております。ですから、当初からそのような注意を含めて書かせていただいたつもりでした。しかしながら、被害当事者としての経験を積まれ、長く苦しんで来られた方々にとって僕の発言は、まさに「いらぬお節介」であり「当然すぎる知識」を頼んでもいないのに偉そうに教えてくる「マンスプレイニング」として映ったことでしょう。そういった思いを抱かせてしまったことにつきましては、慙愧の念に堪えません。大変、申し訳ありませんでした。
ただ、ハラスメントの問題はまさに誰もが当事者になりうる問題です。知識も経験も十分には無く、普段はそういった問題に大きな関心を払っておられない方が、ある日突然、被害者になってしまうことも多いのではないでしょうか。そういった場面において、「警察なんて思いも寄らなかった」「法テラスなんて知らなかった」という方もまた、存在しておられるのではないでしょうか。そして、良い方向へ進む可能性が少ないのかもしれませんが、警察や司法への相談が問題解決の道筋をつけてくれる場合もまた、確かに存在するはずです。
【2023/09追記】今年、法律がまた変わりましたの。新しくできた不同意性交等罪が扱える範囲は従来よりも広がりましたので、警察、司法に訴える、という方法の現実味は、少なくとも法律上は、今年から明らかに増しました。
僕の当初のtweetは特定の誰かに向けて書かれたものではなく、不特定の方に向けて広く一般論として書かれたものです。僕は、僕のtweetに触れてくださる方の中に少しでも、一人でも「当然すぎる知識」についての気づきがあれば、それは十分、価値があることなのではないかと考えておりました。その際の僕の態度について、また、語り口についてのご批判は甘んじて受けましょう。上から目線になりがちな自分の業、人間性の問題と向き合っていかなければならないと覚悟して、努力を続けて参ります。しかし、基礎的な知識であれ、完全でない手段であれ、役に立つ可能性がある方法については何度でも言及されていいのではないか、とも思わずにいられません。僕の発言に限らず、今後「マンスプレイニング」というご批判が過剰に増えていってしまえば、本来インターネットが持つ、集合知を活用しあえる、というすばらしい機能が、とても残念な形で変質していってしまうのではないでしょうか。当然のことですが、中年男性の被害当事者の方が、自分の被害をカミングアウトせずに、役に立つ情報を共有したい、発信したいという思いを抱かれる場合だって、きっとあるはずなんですから。
マンスプレイニング、再考
ここで改めて知乃さんのご指摘に立ち返ってみたいと思います。
知乃さんが実際に書かれた言葉、その表面に対して額面通りの反応をしてしまえば、まさにこの文章の前半で展開したような無為な「反論」が展開されてしまうことでしょう。そこで、誠に僭越ながらここからは知乃さんのご指摘の可能性の中心を想像し、彼女のご批判の底流にある考え、訴えはなんだったのか、といったことに思いを馳せ、その上で、改めてご批判についての応答を試みたいと思います。下記するのは、彼女からのご批判に限定せず、複数の方からのご指摘の底流に流れていたであろう批判の本質についての想像を巡らせた、広田による意訳/勝手訳です。
当然、「私が言いたかったのは全然こんなことじゃない」というご批判もあろうかと存じます。しかし、僕なりに知乃さんをはじめとするご批判を寄せてくださった方々の真意を想像し、表層的な反論に陥らぬために僭越ながら大胆な読み替えの文章を書かせていただきました。こういった観点から見た時、確かに僕の最初の発言はあまりにも不用意で、ご不快を感じられる方が多かったのも当然すぎることかと存じます。大変、申し訳ありませんでした。深く反省してお詫び申し上げたいと思います。
先述したように、全面的に知乃さんのご発言すべてを肯定するつもりはございません。また、自分のこれまでの発言・行動をすべて否定するつもりもございません。誰に対してであれ、僕は全肯定も全否定もするつもりは無いからです。人間同士にできることは、部分肯定、部分否定でしかないはずです。業界の変化が遅すぎて苛立つこともあるかもしれません。不公正に対して辛く苦しい思いを抱える方が多すぎるのかもしれません。それでも、僕は誰かの主張に対してすべて同意し、多くの人の意見が急いでひとつに集約されていくような風潮には賛同いたしません。人間同士、協力できる部分を探し出し、少しづつ「ちょっとはマシな」落とし所を見つけていく、という長い長い作業を続けていくことでしか、問題解決への根本的な方法は見つからないのではないでしょうか。僕は人間をそのように諦めているのです。
もちろん、僕だって「やったもん勝ち」の世の中で良いはずが無いと思っています。劇団としても、個人としても、微力ながらそのような流れに抗って行動を起こしているつもりです。それを、続けていくつもりです。加速させていくつもりです。無論、現状は完璧からはほど遠い状態でしょうし、そのことについてはお詫び申し上げるしか無いのですが……。それでも、絶対に「やったもん勝ち」の社会を温存していいはずがありません。まずは被害者の人権こそが最優先されなければいけない、ということも、おっしゃる通りだと思います。
今回の告発に関しても、すでに告発者に対する誹謗中傷が起こってしまっているという状況があり、そのような行いはまずもって許されるものではありません。また、短絡的なミソジニーに陥っているような方々が、他ならぬ僕の意見を曲解して参考にし、自己の正当化のために援用しようとしている、そういった危険性があることも十分自覚しなければならないと考えるに至りました。今回の件で、その危険性について痛感いたしました。自分の、自分たちのできることは小さいですが、今後とも勉強を重ね、実際の行動を起こし、少しでも被害に遭われる方が減るように、また、被害を受けた方が過ごしやすい世の中になるように、努力を重ねて参りたいと思います。
知乃さんがお求めになった「誓う」という言葉はあえて使いませんが、何卒ご容赦ください。僕は某宗教団体の家庭に生まれ、育ちましたので、誰かに考え方を強制されることに関して猛烈な反発意識を抱いております。一色に思想をまとめようとする全体主義的な傾向を蛇蝎のごとく憎んでおります。
あまりに当然のことですが、立場上も、経験上も、僕は知乃さんと同じ地点に立って声をあげることはできません。同じ感度で怒りを覚えることもできません。そんなことは期待されておられないでしょうし、たとえどれだけの努力を重ねたとしても、よもやそんなことができるようになったなどと自惚れるべきではないでしょう。だからといって、知乃さんの考え方、やり方に反対することしかできないわけじゃないと思うのです。邪魔をすることしかできないわけじゃないと思うのです。また逆に、僕のスタンス、僕の問題意識、僕の後悔など、知乃さんにすべてわかってもらえるはずもありません。当然のことでしょう。ですから、僕のような不徹底な態度の日和見主義者を、どうぞ憎み続けていてください。それでも、それぞれが自分の立場と感性の限界の中にあって、より良い演劇界のために別々の場所で寄与できることが、そういった方法が、ある、と、いいなと願っております。きっと、できることも、与えられているであろう役割も、あまりに違うのでしょうから。僕は僕で、歴史に学び、伝統を尊重し、最新の研究に触れ、そして、自分の頭で考え、公に資するように行動して参ります。
まとめ
最後に少しだけ、自分が信じていることについても書きたいと思います。
現代は「被害者ファースト」の世の中にはほど遠く、まだまだ、最も配慮されるべき立場にいる方々が、かえって踏みにじられてしまうことの多い社会だと思います。ですから、そういった声がまずは少しでも大きくなることが先決で、せめてもう少しだけでもそのことが前進してからでなければ他のことは何も始まらない、始めるべきではない、という感覚をお持ちになっている方々がいることも、当然のことと思います。いや、当然なんかではありませんね。むしろ、そういった方々の存在は本当に貴重で、ありがたく、大切なことだと感じます。自分たちも、微力ながらその一助となるような仕事をしたいと考えております。しかし、それでもなお、冤罪を避けなければいけない、という僕の信念は変わりません。ネットでの私刑は慎むべきであるし、誹謗中傷の問題についても厳粛に受け止めなければいけません。そしてそのことは、決して「被害者ファースト」の考え方と矛盾するものではありません。
といいますのも、冤罪によって罪なき罰を受けてしまった方々もまた最も弱い立場に立たされた、最も配慮されなければいけない、被害者の方々であるからです。冤罪に拠って人生を破壊され、家族を破壊され、時にその方の命に関わる問題が発生することを、私たちは知っています。人類の歴史を鑑みても、魔女狩りは言うに及ばず、マッカーシズム、大逆事件などを始めとする数々の共産主義者への不当な弾圧、また、文化大革命やスターリン、ポル・ポトなど全体主義者による大粛清、そして、近年のイラク戦争においては人類史に残るような「決めつけ」「いいがかり」、つまり「冤罪」によって戦争が引き起こされ、信じられないほど多くの人間の命が不当に奪われてきたという事実がございます。合わせれば、何億人もの無辜の人々が冤罪によって人生を奪われて来たのです。それらの歴史において常に加害者は心の底から「あいつらが悪いんだから叩くのは当然だ。正義は我々にある」と信じていたはずです。だから僕は「正義」なんか信じません。人間の「良心」なんて簡単に間違えを犯すものだと思っています。だから、どんな時でも人は自分の信じている正義に疑いを持つべきであると思うし、そのために、様々な意見が出されるべきだと思うのです。まさに「正義」に疑いを持つためにこそ、言論の自由が担保されるべきだと信じているのです。人はみな、確証バイアスと認知的不協和によってがんじがらめにされ、自分の非を認めることがもの凄く苦手な動物であると、僕は学んできたからです。
今、ハラスメントの問題について少しづつ異論を許さないような空気が醸成されつつあるとも感じます。「怖いからネットではいえないけど、広田さんの言ってることは普通だと思いますよ」というご意見も、僕のところには複数、寄せられています。その中にはまさにハラスメントの被害当事者の方も含まれています。
「被害者ファースト」の価値観が少しづつ広がっていることはすごく素晴らしいことだと思います。そして同時に、異論を許さない空気が少しづつ醸成されてしまっていることは、とても危険なことだと思います。僕は、それらふたつのことを同時に感じています。この発言もまた「ブレーキ」になってしまっているのかもしれません。「二次加害」なのかもしれません。ですが、それでもやはり、僕は誰かに意見を強制されるような社会を作ってはいけない、という思いを捨て去ることはできないのです。
「今はブレーキを踏む時じゃない、それをいう段階ではない」という意見もわかります。しかし、やっぱり半分ぐらいしか同意できません。「時にはブレーキを踏みつつアクセルを踏んでいこう。悔しいけど、そうするしかないじゃないか」というのが僕の立場です。賛同できない方がいても当然のことかと思います。僕のような態度を許しがたい妥協と感じる方がおられるのも自然なことだろうと思います。それはそれで、仕方がないですし、それはそのままで、いいことなのかもしれません。
長い文章を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。当然、その上でなお「結局、悪辣な二次加害だったね」「まさに俗悪なバックラッシュのお手本だよ」と言われてしまう可能性もあるでしょう。ご不快に思われる方も多いことでしょう。ですが、それでも僕は言論の自由を固守することと、公正さ、フェアネスを重んじる態度、そして最終的には基本的な道徳、すなわち、自己犠牲の精神とお互いへのおもいやりに拠ってしか、多くの人が安心して暮らせる社会は作れない、そう信じているのです。
2022/05/17