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夢をかなえたその後で
私のプロフィールには「テレビ局でニュースのリポーターとして原稿を書く仕事をした後、ライターになった」と書いてある。これだけ見ると、まるで順風満帆な人生を送ってきたように見えるが、決してそうではない。
まず、テレビ局でニュースのリポーターになるまでに、順風ではなかった。
子どもの頃からアナウンサーに憧れていたから、大学を卒業後、複数のテレビ局でアナウンサー採用試験を受けた。試験会場に行ったら、もうアナウンサーなんじゃないか、という華やかな人たちばかりだった。
私は試験の間近まで知らなかったのだが、アナウンサー試験を受ける人は大学とアナウンス学校の両方に行くのが当たり前らしい。ウチにはお金がなかったから、アナウンス学校には行けなかった。
しかも、アナウンサー採用試験の倍率は、100倍とも200倍ともいわれる。そんな難関を突破することはできなかった。
それでも、夢をあきらめきれず、相当なまわり道をした。披露宴会場で司会のアルバイトをしたり、知り合いの伝手をたどって、少しずつラジオやテレビでしゃべる仕事をするようになった。
そうしてチャンスを待っていたところ、当時、私が住んでいた沖縄でサミット(主要国首脳会議)が開かれることになり、人手が足りなかったテレビ局の報道部で仕事をすることになった。
ニュース現場での取材、リポート、中継、原稿を書くこと…。失敗はたくさんあったけれど、全てが楽しくて、6年間があっという間に過ぎた。
しかし、契約リポーターという立場上、長い期間勤務することができず、やむなくテレビ局を退社。
今思えば、ここからが、私にとっての「暗黒の5年間」だった。
「とにかく、東京で仕事をしてみよう」と決心して、上京。派遣のテレビディレクターになったのはよかったが、地方のテレビ局とは比べものにならないくらい、ハードな毎日。
朝から晩まで働きづめで、終電で帰ることすらできず、打ち合わせ室で椅子を並べて仮眠するような日々…。今でいうブラックな職場で、「このままでは、自分が壊れる」と思った。
そして、大好きだったテレビの仕事をあきらめて、広告代理店へ。ここでも仕事がうまくいかず、イベント会社へ。その頃、リーマンショックが起きて、会社の売上が激減。やむなく、また転職。
気づけば、日雇いのアルバイトを経て、飲食店のウェイトレスに…。「私は、何をしに東京に出て来たんだろう?」と思いながら毎日を過ごした。
そんな時、東日本大震災が発生。
地震発生からしばらくは、東京でも自粛ムードが続き、飲食店にはお客さまが来なくなり、私は、店からヒマを出された。つまり、クビだ。
「とにかく、仕事を探さなければ」とハローワークに通った。でも、当時は震災後で、景気が最悪の状態。少ないながらも求人があるとはいえ、一般企業では営業や事務職を求めている。マスコミと広告業界とアルバイトという経歴では、どこにも雇ってもらえなかった。
当時、なんとか面接を受けさせてもらった会社の社長から言われたひとことが、今も忘れられない。
「君は、夢を叶えてしまったんだね」
そうか。私はずっと「テレビ局で仕事をする」という、自分が叶えた夢にしがみついて生きていた。もう、過去のことなのに、後ろばかり振り返っていた。意地とプライドだけで生きていた。
人は夢を叶えた後、どうするのか。
第二の人生を、どうするのか。
たとえば、山には頂上があるから、そこを目指す。だけど、ハイキングみたいに、頂上を目指さなくても、山は楽しい。
ムリに「夢」という目標を探す必要はないけれど、前向きに楽しく生きるのは大事だ。そうやって前向きに生きてさえいれば、いろんな人に出会って、次の夢や目標にも出会える。今の私は、そう思っている。