イタリア人の魔法のコミュニケーション術
先日にのブログでイタリア人の事を書いて以来、もう少し僕の中にあるイタリアについて考えたくなった。
僕はあまり頭が良くないのでじっと座りながら考えるよりもこうして文章を書き出しながらの方が頭の中が整理されてやっと考えがまとまる傾向にある。昔からパソコンでタイプしながらか、もしくはペンを持ってでないとでないと深い思考ができない悪い癖だ。だから考えがまとまらない時は時折こうして机に向かい考える。
そんな癖もあってか、昔から思考能力と思考時の身体的態勢には深い関係があると思っていて、僕のタイピングやペンを持つと言う行為はその一種なのだと思う。
これも考察してみたい面白そうなトピックだが、この話はまたの機会にして今日は再びパチパチとタイピングしながら僕の中のイタリアを探る日にしてみようと思う。こんな僕の私的な行為に今日もお付き合い頂ければ幸いだ。
先日のブログにも書いたがイタリアでは地方都市がそれなりの力と発信力を持ち各地に世界に名をはせる観光地が数多くある。
ミラノは首都として当然だが、古代都市ローマ、ヴェニスやフィレンツェ、それにピサだったりボローニャだったり、ピザで有名なナポリだったり、ハムで有名なパルマだったり。それにカプリ島なんかも有名だ。それほど大きいとは言えない国土にこうまでして有名な地域が数多くあるのはイタリア以外ないかもしれない。
フランスの地方都市をどれだけ知っている人がいるだろうか。イギリスはどうだろうか。ドイツは?中国は?それこそ広大な土地を持つアメリカと同じくらいの数、有名な土地があるかもしれない。
イタリアの10数カ所の街に仕事と私事で訪れた事があるが、確かに素晴らしい壮観の街が多いのは確かだ。でもそれはどこの国でも同じ事で、世界の国々には素晴らしいと思える街は沢山ある。もちろん日本も然り。
そう考えるとイタリアは自国のブランディングが非常に上手い国だと思わずにはいられない。それは先日のブログにも書いたがイタリア人の各人のアピール能力、プレゼンテーション能力の高さがあるのは間違えはない。長きに渡る歴史の中でそれが積み上げられ世界に名を馳せるようになったのだろう。
しかしながら疑問点が残る。イタリア人は決して世界の共通言語である英語が上手な国な国とは言い難い。国内を転々と旅をしていても英語が通じない人は多いのが現状だ。若者は喋れる人は確かに増えてきてはいるが、年配の方は英語よりも実はフランス語が得意だったりする。
それなのにどうしてもこうも世界へのアピールが上手なのか。旅をそれほどまでにしやすい国だと感じさせるのか。その疑問点についてもう少し考えてみる事にしてみよう。
それはイタリア人個々のコミュニケーション能力の高さにあるのかもしれない。僕はイタリア語が全くしゃべれないし、相手も英語が通じない事が多いが不思議とコミュニケーションが他のヨーロッパ諸国や、アジアの国々と比べれても取りやすいとなぁ感じてしまう。
世界トップクラスの観光地として現地の人が旅行者に慣れてる事もあるのかもしれない。それでも旅行者が来ないようなイタリアの田舎街に行っても困ったなぁと思う事が少ないと個人的には感じる。基本的に人々がとってもオープンマインドで誰でもイタリア語で気さくに話しかけてくれるのは大きな要因だろう。
コミュニケーション能力と言うと、一般的には言語を操る能力と理解される事が多いが、それは少し違うようだなと旅をしていると時折思う事がある。
「 コミュニケーション: COMMUNICATION 」とは日本語では「 伝達 」「 伝えること 」と言う意味で自分の考えや思いを伝える事だ。そう考えるとあくまで言語というのは伝える事の一つのツールにしか過ぎない。旅をしているとイタリア人達はその事を深く理解しているのか、自分の知っている英単語を羅列したり、絵に描いたり、ボディーランゲージを使ってなんとか伝えようとしてくれる。伝えたいという衝動が強いと言った方が正しいかもしれない。
昔、英語が全く話せないイタリア人達とのミーティングの際に通訳できる人が不在で困った事があった。旅行で言葉が通じなくても何とかなるとは思っていたが、仕事の打ち合わせとなると話が別であった。細かな情報のやり取りをしなければならない。その時でも彼らは機転を利かせて、僕のiPADを使って会話をしようという事になり、iPAD上に文章を書き互いに英語、イタリア後に翻訳しながらミーティングをした事があった。彼らのコミュニケーションに対する欲求を垣間見た気がした。
※ Italian hand gestures
もう1つ、イタリア人のコミュニケーション能力の高さにおいてすごく印象的な事があった。イタリア人の友人に連れられて飲み会に出向いた時の事だ。そこには30人ほどのイタリア人達が集まり、大きな机を囲んで皆んなでワイワイと飲んでいた。僕は英語が堪能なその友人とは離れて座る事になり、知らないイタリア人達とテーブルを囲んだ。自己紹介もままならぬまま乾杯をし飲み始めたのだが、驚く事に僕の周りには英語が話せる人が一切いなかった。
僕ははじめ日本人お得意の愛想笑いで時を過ぎるのを待とうと考えてチビチビとビールを口に運んでいた。ところが彼らはお構いなしに僕にイタリア語で話しかけてくるのだ。そんな様子を僕はポカンと眺めていたが、彼らは僕の眼をしっかり見つめながら豊かな表情とお得意のボディーランゲージで次々と会話を繰り広げようとするではないか。言葉の通じない僕にさえ必死に伝えようとする。
そんな彼らの姿を眼にしていて僕も無視する訳にはいかなくなる。ぬるくなったビールを机に置き、椅子に座り直して真剣に傾聴し、彼らの言わんとする事を僕も必死に聞き取ろうとし始めた。
しばらくして彼らの発する言葉の音に耳が慣れてくると、その音、表情、ボディーランゲージから微細な彼らの感情の変化が分かるようになってくる。そうすると不思議な事に彼らの言いたい事の断片はなんとなくだけど読み取れてくるのだ。
英語とイタリア語が同じラテン語から起因しており時折出てくる単語が理解できるのは確かにあるかもしれない。でもそれ以上に彼らの表情やボディーランゲージや言葉の抑揚やリズム、言葉の音が少しづつ少しづつ僕の中に浸透していく。音楽を聞いて居て時折感じる、音楽を奏でる弾き手と聴き手が通じ合う一種の一体感がそれに近いかもしれない。音楽を奏でるミュージシャンのように、言葉ではない音、またジェスチャーでキャッチボールをするコミュニケーション。
酔いがほどほどになり気がつくと知らないイタリア人達とを組み長年の友人かのようにイタリアの歌を歌っていた。帰路の頃には皆で競争だと駅まで知らないイタリア人達多数と自転車二人乗りの競争をし、ミラノの夜の街を疾走しているのだった。恐るべしイタリア人のコミュニケーション能力。
理路整然とした意味と文法に重きを置く日本人の言語感覚からすると、そのコミュニケーション方法はとても新鮮な感覚だった。言語ではない何か別のもので心と心が互いに通じている感覚が其処には確かにはあった。言葉とあくまで概念でしかないのかもしれない。そう思わずにはいられない瞬間でもあった。
英語を喋れる人が居ないのに連れていく友人も友人だと思ったが、コミュニケーションの本質というのを分かっているからこそ、僕をそんな場所にも連れていったのかもしれない。言葉遊びだけを楽しむのではなく、全身でコミュニケーションを楽しもうとする姿勢がイタリア人の中に根付いているのだ。
そんなイタリア人達との言葉を超えたシーンを振り返ると、僕ら人間が言語を持たない時代、おそらく僕ら人間は口から発する"音"と"ジェスチャー"でコミュニケーションをとり社会生活を営んでいたのだろう考えられる。口から発せられる意味を持たない音から相手の感情を読みとり相手を理解していたのだろう。そしてやがて集団の中において、意味を持たないその音の共通点に気がつき、その音が次第に意味をなし言語として進化していったのだろうと想像できる。
そう考えると僕らはコミュニケーションを取る際にもっと口から発する音の背景にある感情に敏感にならなければいけないのかもしれない。言語 (意味)と言葉の音を別のコミュニケーションツール考えると、音というのは人間の原始的コミュニケーションツールなのだから。
文化が成熟するに連れて言語が複雑化し、文法や言葉の使いまわしに美徳を感じるようになってしまってはいるが、面と向かってにコミュニケーションする際においては、実は相手が発する音の方が相手を理解する、または理解されるのには重要なのかもしれないとイタリア人達は教えてくれる。
この社会で生活していると、時々支離滅裂で何を考えているのか全く分からない相手に出くわすこともある。そんな時は意外と相手の発する音に注目するとその人の深層心理が垣間見えたりするのかもしれない。
イタリア人にそんな気づきを与えてもらった僕は、こっそりとバレないように相手の音の観察を行っていこうと思う。少しは相手の考えていることが分かるようになるかな?
あぁ、今日もまたイタリア語を勉強しない一つの言い訳を見つけてしまった、、、。
私的なイタリア人考察終わり。