エッセイその122. おうちでロスト・イン・トランスレーション(3) 直訳英語に苦しむ女
お写真は、私の大好きな内田百閒先生です。
いや〜、今日も頑固で偏屈そうですね先生は。
私は先生の阿呆列車シリーズが好きで、実家にはシミだらけの薄い岩波文庫が何冊かまだあると思います。
先生の著書は、今でも出版され続けているのが嬉しいところです。
https://www.amazon.co.jp/s?k=内田百閒&__mk_ja_JP=カタカナ&ref=nb_sb_noss_1
とても面白くて読みやすいのでお勧めしたいです。
以下は、本が手元にないので、正確ではないのですが、
先生の随筆の中に 私が一つ、面白いと思ったくだりがあり、
私はそれを たびたび思い出しています。
内田百閒さんは、ドイツ語(獨逸語と書かないといけないかもしれない)
の先生ですが、英語も素晴らしかったそうです。
そのことについて、知恵袋に面白いことを質問している方がいましたので、無断でこっちに引っ張ってきますね。
さて、前置きが長くてすみませんでした。
私の忘れられなかったのは、百閒先生の随筆の中で、こういうのがあるのです。
先生が某日、或る米國婦人と会話を交わしていた際、この御婦人から、
「貴君は日光に行かれたことはあるか」と尋ねられた由。
先生が、
「不幸にして未だその幸せには浴していない」と答えると、
婦人は美しい眉を顰めて、
「其れは怪しからぬことである。貴君は全体、どうしたことであろうか。
貴君は必ず日光に行かねばならない」
と言われたと。
先生の随筆で、このアメリカの女性が言った部分が、このように「直訳調」で描写されているのです。
もちろん、直接英語で会話ができる先生なので、わざとこのように書いたのですが、私思うに、英語を話している日本人は、骨の髄まで染み込んだ「直訳調」から完全に抜け出でることはできないのではないでしょうか。
つまり、母語である日本語が耳に聞こえるのと同様に、英語を英語のままで脳に迎える、感じることは、結句不可能なのではあるまひか。
そう思ったのでした。
私は思いました。
このような戯言(ざれごと)が出てくるのは、百間先生も私たちも、学校で習い、先生に「このように訳しなさい」と言われた通りのものを、骨の髄まで染み込ませているからなのではないでしょうか。
ここまででなくても、教科書の会話を逐一訳す訓練をされてきた私たちです。
訳して、普通そんな話し方はしないとわかっていても、一語一句訳さないと、バッテンです。
え〜、ジョンが・・・スーザンに・・もらった・・ところの、
誕生日の・・おくりものは・・美しいペン・・であった。
はいピンポンみたいな。
(今の英語の授業は、さすがにこれほどじゃないとは思いますが)
例えば、please という珍しくもなんともない言葉についてです。
私が最初、NZで夫の家族と会った頃、私はどうしても、全てのお願いに pleaseをつけないでいることができませんでした。
だって、
Please なになに、とか、なになにしてpleaseというのが
「丁寧なお願いのときに言わなければいけないこと」だ
と習ったし、プリーズがないと、「食べろ」「座れ」という、命令口調で自分が喋っていると、どうしても感じてしまうからでした。
ところが義両親も友達も、思ったほどには、pleaseを使っていないように思え、逆にこっちは、なにか始終指導や命令をされているように多少感じました。
リラックスせよ。
もっと食べろ。
ためらうな。
自由にしろ。
日本からの飛行はどうだったか、話せ。
・・これは誇張ですが、(Please 言わなくて普通?)とときどき思ってしまうのでした。
そこで私は困ってしまい、夫に、
「プリーズをつけないと、命令口調になってない?」
と訊いてみたら、
いやいや、そうでもないよ。もちろん言うに越したことはないけどね。
そういえば、君はものすごくプリーズを言いすぎるよね、気になってた。
と言うではありませんか。
そのあと私は、
「プリーズを言わなくても、特に何も引き起こしていないケース」
をじっくりと観察し、自分のプリーズも、徐々に減らしていったのでした。
今では義母に対して、
Mom, go to bed.
Mom, don’t do too much.
などのように普通に喋れるようになり、意図した通りに自分の脳にも響くようになりました。
つまり、直訳をだいぶ、やめることができるようになったのです。
上の文で言うと、自分の言葉を聞いても、
「お母さん、寝ろ」ではなくて、「お母さん、寝たら?」に、
「お母さん、やりすぎるな」じゃなくて、「お母さん、無理しないで」
とまさに自分が言っているというふうに、自分でも感じられるようになりました。
こんな変なこと考えているの私だけですか?
さて、このことは、何十年も前に解決済みだったはずなのですが、
意外にしぶとかったという話を書いて、今日は終わりにしますね。
先日 夫が
「Feel Good 」のシーズン2が出たけど、見る?」
と、台所にいる私に訊きに来ました。
(我が家では日常語は英語のほうが多いです)
私がそれに対して、
「そうだなぁ〜、次女も見たいかもしれないよなぁ〜。
でも待ってるといつになるかわからないからなぁ〜」
とかごちゃごちゃ言っていいたら、夫が、
Should we watch it now, then?
と言うのです。
それが私には、
【我々はそれを今見るべきか?】
というふうに響いたのでした。
私は Yes, we should ということができませんで、代わりに、
Well, I don’t know whether we should watch it now or not,
I want to watch it, though.
(さあ〜、見る「べき」かどうかはわからない、
見たいけどね)
と答えたのでした。
すると夫は妙な顔をして同じ質問を繰り返し、私も同じ答えを言いました。
夫がやや呆れたように(天井を仰ぐので、わかりやすい)、
見たいなら見ましょう、見たいんでしょ?
と言ってきたので、私もちょっといらっときて、言いました。
「夫、これは、見たいかどうかが問題ではありません。
貴殿が「見るべきか」と聞いてきたので、答えられないのです。
なぜなら、私は、自分が見たくても、
「見るべきである」と言いたくないのだから、
見たいですとは言えても、見るべきですとは言えないのです。
貴殿の設問自体が、そもそも答えにくい質問なのです」
何を言いたいのか、すでにわけがわかりませんね。
変なことを言っているときの私の英語は、まさに上記のようになっていると思います。(内田先生に倣いました)
二人で黙ってしまってから私は気が付きました。
そうだ、私は遠い昔に学校で
should は「あなたは・・すべきである」であって、強い意味を持ちます
と教えられた通りを、今に引きずっていたことに。
夫としては、
「今見ちゃう?」
と訊いただけなのに、妻は、「見よう」とも「また今度」とも言わず、
「今見ちゃうかどうかについてはお答えできないしお答えしたくない。
見たいのは事実であるけれど」
みたいなことを言っているのです。
確認したら、まさしく、そう感じたそうです。で、
君ってなんで、シンプルなクエスチョンに、シンプルに答えないの?
君って、イエスとノーしかない答えなのに、
答えないために、多くの言葉を費やすよね?
って言われてしまいました。
く、くやしい〜・・・😂
でも私のときどき陥るこの、在宅ロスト・イン・トランスレーション。
真面目に英語を勉強してきた日本のみなさんには、
ある程度わかっていただけたりしないでしょうか。
shouldという言葉を習ってから幾星霜。
私は、shouldの中に、高圧的な・命令的なものを感じてしまうため、
たぶん使うのをためらってきたし、質問されると、
私はそんな、人にshould と言うような人間ではありません。
という気分が込み上げてしまうのに改めて気づきました。
いやいや、should, 全然使っていますよ、レッスンでもなんのときでも。
ただ、心の奥深いところに、shouldというのは、危険物取扱主任じゃないと、軽々に使ってはいけないようなものが残っていたんですね。
銀婚式過ぎたパートナーなんで、これでもってくれています。
夫よ今日もお疲れ様でした。
丈夫でいつまでも長生きしてください。🙏
サポートしていただけたら、踊りながら喜びます。どうぞよろしくお願いいたします。