世界史 その33 「海の民」と「前1200年のカタストロフ」

 いろいろ悩みましたが、紀元前1200年ごろまでのエジプト、ヒッタイト、ギリシャの歴史を語ってきたので、予定通り「海の民」と「前1200年のカタストロフ」について纏めてみることにします。

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 紀元前1200年ごろ、ギリシャに栄えていたミケーネ文明とアナトリアの大国ヒッタイトが滅びます。同じころエジプトにも異民族が襲来しており、この異民族の総称として現代「海の民」の語が使われてます。
 エジプトの碑文にこの異民族たちはヒッタイトを滅ぼし、シリア・パレスティナを荒らしてエジプトに迫ってきたと書かれているため、この3地域に起こった事件は一連の出来事であると認識されるようになったわけです。

 この時代に起こった出来事を地域別にみていきます。まず「海の民」の活動が記録に残されているエジプト。ラムセス2世の長い治世で繁栄を誇ったエジプト第19王朝でしたが、その死後、エジプトの反映にも陰りが見えます。ラムセスの後を継いだメルエンプタハの治世5年、現代において「海の民」と呼ばれている諸民族が、リビア人とともにエジプトに侵入しました。エジプトは侵入者の撃退に成功し、リビアと「海の民」の連合軍は多数の戦死者と捕虜を出しています。
 エジプトが第20王朝に交代したラムセス3世の治世にも、エジプトはリビア人および「海の民」の来寇に悩まされます。リビア人の来寇は治世の5年と11年、「海の民」の来寇は治世の8年とされています。エジプトの記録によると「海の民」はヒッタイトを滅ぼし、アルザワ(アナトリア西部)、アラシア(キプロス)、カルケミシュ(シリアとアナトリアを繋ぐ交易都市、ヒッタイトの副王領)を滅ぼし、シリア沿岸を荒らしながらエジプトに押し寄せてきた、とされています。エジプト側はナイルデルタで彼らを迎え撃ち撃退に成功しました。捕虜となった者は、辺境での軍務を課せられましたが、エジプト国内への定住に成功したとも言えます。

 エジプトの記録で「海の民」に滅ぼされたとされるヒッタイトはどうでしょう。ヒッタイトの滅亡については考古学的な資料の少なかった時代が長く、「海の民」に滅ぼされたとするエジプト側の記録が受け入れられてきました。しかし近年その仮説に対する批判も強くなってきています。
 そもそもヒッタイト王国の末期となる前13世紀以降、アナトリアでは数世紀にわたる長期的な干ばつによって、飢饉や食糧不足がおこっていたようです。属州や同盟国であるエジプトに食料を送るよう要請する文書が見つかっており、またエジプト側でもメルエンプタハの治世にヒッタイトの飢饉に対し食料を援助した記録があります。
 求心力の低下したヒッタイトでは属国の離反があったと推測される文書も見つかっており、また王族が副王として治めるタルフンタッシャやカルケミシュとの間にも軋轢があり、副王が王の対立者として、また副王領が本国から独立した勢力としてヒッタイトの統治から外れていく様子も史料からはうかがえます。
 この様に衰退していたヒッタイトですが、紀元前1180年ごろにヒッタイト語の文書による記録は途絶えます。その滅亡の経緯について記した文書は見つかっていませんが、外敵の侵入や海戦についての記録、属国が救援を求める文書などが断片的に残っています。
 考古学的知見から言うと紀元前1200年ごろから、アナトリア沿岸部でミケーネ式の彩文土器やヨーロッパと共通する青銅製の武器が出土するようになります。しかしこれらは沿岸部に限られ、首都ハットゥシャなどヒッタイトの中心部には及んでいません。しかしながらハットゥシャは滅び、その跡地にはバルカン半島から移動してきたフリュギア人が国を建てます。フリュギア人が直接にヒッタイトを滅ぼしたのか、別の原因で滅んだ跡地に移動してきたのかはよくわかっていません。

 ミケーネ文明圏でも多くの都市が主に火災によって破壊され、再建されない都市もありました。一方では破壊以前より大きな都市として再建された都市もあります。またこの混乱の中で、ギリシャ人はキプロスやアナトリア西部沿岸部(後のイオニア地方)へと拡散しています。ミケーネ文明の崩壊とともにミケーネ文明を担った人々とは別の、しかしギリシャ語を話す人々であるドーリス人がギリシャへと南下してきます。かつてはこのドーリス人の侵入こそがミケーネ文明崩壊の原因とされてきましたが、現在ではむしろ混乱によって放棄された地域にドーリス人が移動したとも考えられています。
 この時期にギリシャでは線文字Bが使用されなくなって、無文字の時代、いわゆる暗黒時代となります。

 「海の民」は雑多な民族の総称です。メルエンプタハの時代の侵入とラムセス3世時代の侵入では、リストに現れる民族名もかなり異なっています。その個々の民族は「カタストロフ」のかなり前からエジプトやその周辺で活動していた民族や、「カタストロフ」後の時代に活発な活動を見せる民族が含まれています。
 ラムセス3世時代に来寇した民族のうちペレセトと呼ばれる民族は、旧約聖書でユダヤ民族の敵とされるペリシテ人と同じ民族ではないかと考えられています。このことから少なくとも海の民の一部は、来寇した地域に定住したと言っていいでしょう。海の民とは無関係ですが、メルエンプタハの時代にエジプトの文書に初めてイスラエルの語が登場していることから、ユダヤ人も同じ頃に歴史の舞台に登場していると考えられます。
 「海の民」はおそらくアナトリア西部やエーゲ海の島々から出発して東地中海域に押し寄せました。遺物からするとミケーネ式の土器や武器を持ち込んでいるので、ギリシャ方面から来たこと自体は間違いなさそうですが、一方で線文字Bがこの地域に持ち込まれた形跡はありません。「B.C.1177」の著者であるクラインは、このことから彼らはミュケナイで宮廷を中心とする文化が滅んだ後に入り込んだ人々であったのではないかと推測しています。「海の民」は「カタストロフ」を拡大しながら東地中海を蹂躙したのだというイメージが強いと思いますが、そもそもの発端を遡れば、彼ら自身も「カタストロフ」によって故地を追われた被害者であったかもしれません。

 現在に至るまで「カタストロフ」の原因はもとより、正確には何がおこったのかも完全にはわかっていないと言えます。それでも様々なアプローチからの研究が進められ、その時代に地震などの地殻活動が活発であったこと、気候変動による食糧不足が度々発生していたことについての知見が積みあがっています。また内乱や民族移動に伴う戦争や破壊についても、より詳しくわかるようになってきています。
 それぞれ単体なら乗り越えることのできた危機が纏めてやって来た時、社会が耐え切れずに崩壊した。エーゲ海からメソポタミアまで(個人的にメソポタミアでとどまらずイラン高原を経てインダス文明の辺縁であるアフガニスタン地域までとしたいです)、あまりに相互依存的な社会が形成されてしまったため、ひとつの綻びが全体の崩壊を招いた。王宮中心の中央集権的な経済から、小規模な民間による自由な経済への転換が海の民を生み出した。と色々な説明はされていますが、誰もが納得する定説の構築には至っていません。

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 ヒッタイトに続き、海の民でも苦戦したため、世界史シリーズは足かけ3年にわたって停滞しています。この項も本当はもっともっと詳しく書いていきたい気持ちはあるのですが、無限の時間を浪費してしまいそうなのでここで一端まとめてしまうことにしました。浅いヌルいという批判は甘んじて受けます。自分の理解が進んだら、書き直したり加筆したりするかもしれません。

 最後まで読んでいただき、ありがとうございます。本業のサイトも覗いていただければ幸いです。


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