エラム人はメソポタミア文明の一員か

 つぶやきだと文字数オーバーなので記事にしますが、資料読み込み中のメモ的なものです。

 古代メソポタミアに隣接して暮らしていたイラン高原の民族であるエラム人について、僕は中華文明に対する北方遊牧民のように交流はあっても完全に別の文化だと認識していました。
 ですがカッシート朝バビロニアを滅ぼした時には、バビロニアとエラムの王族は何代も繰り返し婚姻関係を結んでいて、エラム王は自身の母がバビロニア王女であることからバビロニアの王位を要求して侵攻したと読んで、なんだかイメージが違う気がしてきました。問答無用で侵略してくるというよりは、文明のルール内で王位を要求しようとしているように思えます。まるで教皇権の元で王位をやり取りしていた中世ヨーロッパ、例えば英仏百年戦争の勃発時のような雰囲気すらあります。
 エラム人自身の世界観として、メソポタミアと同じ文明の一員だと考えていたのか、メソポタミアの諸民族に対して優劣を感じていたのならどのようなものだったのか。逆にメソポタミアの諸民族から見てエラム人は同じ文明の一員だったのか、自分たちと匹敵する別の文明と考えていたのか、蛮族と考えていたのか。詳しく知りたいと思っています。

 取り合えず以前書いたこちらの記事は大幅にアップデートが必要そうなので、色々資料を纏めることができたら、いつかアップデート版を書くことにします。

 最初に描いた通り、自分用のメモの性格の強い記事でしたが、最後まで読んでいただき、ありがとうございます。本業のサイトもご覧いただければ幸いです。


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びぶ
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