歴史としてのトロイア戦争

 世界史その33で「紀元前1200年のカタストロフ」と「海の民」について纏めました。今回は半ば以上その副産物です。

 ホメロスやその他古典ギリシャ初期の詩人たちが伝えたトロイア戦争は古今東西の多くの人々を惹き付けました。叙事詩・物語を楽しんだ多くの聴衆・観客・読者の他、二次創作的な物語を手掛けた詩人・作家、そして神話に彩られた物語の中から真実を汲みだそうとした研究者たち。それら研究者たちの数千年の研究の積み重ね、近代の科学的思考がこの地の研究に導入されてからだけでも百数十年の積み重ねにより、少しずつ解き明かされようとしています。

 ヒッサリク、ヒッサルリクなどと呼ばれる土地にある遺跡が、伝承にあるトロイであるとされています。この遺跡は良く知られているようにシュリーマンによって発見されたものです。エーゲ海とマルマラ海を繋ぎ、小アジアとバルカン半島を隔てるダーダネルス海峡に近いこの地は、交易の要として栄えていたと推定されています。
 この地にあった勢力はヒッタイトの文書に「ウィルサ」として述べられている勢力と同じものであると考えられています。「ウィルサ」はホメロスがトロイの別名として使用している「イリオス」に通じ、前13世紀初頭のウィルサ王「アラクサンドゥ」の名は、トロイのパリスの別名「アレクサンドロス」に通じると考えられています。

 前15世紀後半、アシュワと呼ばれる地域の22の勢力がヒッタイトに対して反乱を起こしました。アシュワはアジアのことでアナトリア北西部のことだと考えられています。この反乱を起こした勢力の中に「ウィルサ」の名前が登場します。またウィルサに続いてあげられる「タルイサ」は、「トロイア」の語と関連すると考えられます。ウィルサ/イリオス、トロイア/タルイサの対応は興味深いですが、イリオスに対してのトロイアと同様に単なる別名なのかどうかはわかりません。
 この乱を平定後にヒッタイト王トゥドハリヤが奉納したとの銘がある剣が発見されていますが、これがミュケナイ風の剣でした。これが戦利品だとすれば、反乱にミュケナイ人自身が参加していたか、武器を提供していた可能性が考えられます。
 また乱の約150年後になる前13世紀にアヒヤワの王からヒッタイト王に対しエーゲ海の島々に対する所有権を主張する文書が発見されています。これらの島々は、乱より前に婚姻によってアシュワからアヒヤワに譲られたもので、ヒッタイトがアシュワを破ったのはその後であるので、ヒッタイトではなくアヒヤワに所有権があるとしています。アヒヤワはアカイアと同じ語であるとされ、ミケーネ文明の勢力であると考えられており、エーゲ海の東西に婚姻を含む交流があったことがわかります。
 前1280年ごろ、ムワタリ2世の時代にヒッタイトがウィルサを攻撃した記録があります。おそらくこの結果、ムワタリはアラクサンドゥにヒッタイトの宗主権の元での同盟(アラクサンドゥ条約)を飲ませたようです。この条約の中で、ムワタリはかつてアラクサンドゥの後援者として、彼の敵(詳細不明)を倒したことを述べています。
 ハットゥシリ2世の時代(前1267年ごろ~前1237年ごろ)にはヒッタイトとアヒヤワの王の間でウィルサの領有権について対立があったものの、和解に至ったことを示す文書(タワガラワ書簡)があります。
 トゥドハリヤ4世の時代(前1237年ごろ~前1209年ごろ)の書簡(ミラワタ書簡)には、ウィルサのウァルムという王が敵対者によって退位させられたものの、ヒッタイトの傀儡として復位したことが述べられています。

 これらの書簡からは、ウィルサがヒッタイトとミケーネ文明の係争地であったことはわかっても、叙事詩のトロイア戦争に繋がるストーリーは見えてきません。ミケーネ文明のおそらくミュケナイは、長年にわたってウィルサなどアナトリア西部に影響力を浸透させようとしていたようです。トロイア戦争はその漠然とした設定だけが史実で、あとは全てフィクションなのでしょうか。
 次に考古学的な知見を確認してみます。

 ヒッサルリクの丘には長い長い時の中で積み重なった9つの街があり、その層はさらに細かく区分されますが、そのうちトロイア戦争と関連付けられる時代のものは第6市と第7市です。
 シュリーマンがトロイの遺跡をもっと深い層だと考えていたことは有名ですが、その後の発掘でそれらの層はトロイア戦争より遥かに古い遺跡であることがわかっています。
 トロイア第6市は大規模な城壁に囲まれ、大規模な宮殿や邸宅を持った都市であり、ホメロスの伝えるトロイアの繁栄ぶりや、長年の包囲に耐える防備にふさわしいものに見えます。更にはエジプト、メソポタミア、キプロスそしてミュケナイからの輸入品が多く発掘され、交易で栄えた都市であることが推測されます。
 トロイア第6市はa市からh市までの間に幾度も破壊と再建、あるいは再開発があったものの、文化的連続性があります。そして第6市の最後となる6h市は大規模な破壊を受けています。時代も規模もふさわしく大規模な破壊の痕跡まであるトロイア第6h市は、ホメロスの伝えるトロイア戦争のトロイアで間違いないように思われました。
 しかしながら研究が進むにつれトロイア第6h市が破壊された原因が戦乱ではなく、地震であったであろうことが明らかになってきました。
 それに続くトロイア第7a市は第6h市と断絶せず、地震の後に第6市を修復したものであることも分かってきました。第7a市は正確には第6i市と呼ぶべきものだったのですが、現在も慣例に従って第7a市と呼ばれています。第7a市では地震で破壊された第6h市の残骸を修復し、大きな邸宅の跡を壁で仕切ったり、廃材で粗末な小屋を建てたりして、むしろ以前よりも多くの人々が暮らすようになっていました。そして第7a市は戦争によって破壊された痕跡がありました。

 さて、ここからは考古学的な証拠をいかに解釈するかと、伝承に基づいていると推測される叙事詩といかにすり合わせるか、あるいは伝承は伝承、叙事詩はしょせんフィクションと切って捨てるか、というような問題となります。
 トロイア戦争の舞台となった繁栄するトロイアの姿は、第6h市の様子がふさわしいように思えます。しかし実際に戦争で破壊された痕が残るのは第7a市であり、これは残念ながら第6h市に比べると人口こそ多い物の、雑然とした少し見劣りのする街であったのではないかと思われます。
 トロイの木馬とは地震の比喩ではないか、という説もあるそうです。

 ここからは僕の想像となります。
 やはりホメロスが語るトロイアは第6h市がモデルだと思われます。ホメロスは意図的にか知らずにか、戦争の有った時代のトロイアよりも見栄えのする時代のトロイアについて語ったのでしょう。
 第6h市は地震によって破壊されました。僕が連想するのは神話に残るもう一つのトロイの破壊です。トロイア戦争より1世代前、神話の英雄ヘラクレスはプリアモスの父ラオメドンと諍いになり、トロイアを攻略してラオメドンを殺害しました。素人考えですが、半神の英雄ヘラクレスの力は地震の比喩としてふさわしいのではないでしょうか。
 神話のプリアモスはトロイを再建し繁栄を取り戻しましたが、実際の第7a市は地震で壊れた建物や廃材を再利用して建てられた小屋や、かつての大邸宅を仕切って多くの人々が暮らす様子の見られる街でした。日本人である我々には何だか戦後のバラックや、震災後の避難所などを思い起こさせます。
 この第7a市を戦災が襲います。考古学的な証拠からは襲撃者が何者かはわかりません。この戦いがホメロスのトロイア戦争だとすれば、敵はミュケナイ王アガメムノンが率いるギリシャの戦士たちとなります。ヒッタイトの文書を見れば、ギリシャとトロイアの戦争はトロイアが主体となっての防衛戦争と言うより、トロイアの帰属をめぐってのギリシャ対ヒッタイトの戦いであったかもしれません。
 第7a市の破壊の年代について、紀元前1180年ごろという年代が得られています。この年代は正にミケーネ文明がいよいよ崩壊しつつあった年代であり、「海の民」がヒッタイトやキプロスを蹂躙してエジプトに向かっている時代と一致します。そして「海の民」を構成する諸民族の中にはアカイア人ではないかと推測される集団もあります。
 アガメムノンの戦士たちは実は「海の民」によって故郷を追われた人々であったかもしれません。それともミケーネ文明の諸都市の都市文明を破壊した人々が更にアナトリアにも進出したのかもしれません。アガメムノンたちは「海の民」そのものであったのかもしれません。トロイアはヒッタイトからエジプトまでを襲った「海の民」のうねりに呑み込まれた国々の一つであったのかもしれません。
 今後もトロイアの発掘は続き、新たな知見が積みあがっていくことでしょう。考古学の齎す知見が、ホメロスのトロイア戦争とどこまで一致するのか、今後も注目していきたいです。

 * * * *

 海の民について調べた副産物として、この項を書いたのは冒頭に書いた通りです。二年以上に渡ってあれこれと資料を探して読み込んで調べてきたのに、結果当たり障りのないシンプルな内容になってしまった「世界史その33」でしたが、せっかく調べたことを纏めないのももったいないので、このような形になりました。

 この項にも煩雑になりすぎるので、カットした部分が沢山あるのですが、その中の一つが前三千年紀からローマ時代まで使われ続けた地下水道の存在です。ヒッタイトの文書「アラクサンドゥ条約」の中で、ウィルサの地下水道について触れた箇所があるので、トロイア遺跡と文章中のウィルサが確かに同じものである根拠のひとつになる存在です。ですが、この水道について僕が最初に感じたのは、Netflixのドラマ「トロイ伝説」で、包囲されたトロイア勢が地下水道を通じて外部と連絡していたのには元ネタがあったんだ!ということでした。

 現在ヒッサルリクの遺跡をトロイアと呼ぶことに対する異論が全く無いわけではないですが、概ね受け入れられていると言っていいかと思います。ですがこの項で述べた通り、ホメロスの語るトロイアとはかなりの隔たりがあります。正直、二里頭遺跡と史記の夏の方がよほど共通点があるように思えて「ヒッサリクをトロイアと呼んで良いなら、二里頭遺跡も夏王朝の遺跡と呼んで良いんじゃないか」とは思いました。

 最後まで読んでいただき、ありがとうございます。本業のサイトもご覧いただければ幸いです。


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