世界史 その25 エジプト第2中間期

 エジプトの第2中間期。エジプトの中王国時代と新王国時代の間の時代で、エジプトの歴史上始めて外来の異民族「ヒクソス」に支配された時代。ここまでを押さえておくと、まず高校世界史レベルあるいは世間一般での教養としては充分でしょう。ですがせっかく教養エッセイとしてまとめているのですから、もう少し深く掘り下げてみたいと思います。

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 中王国の記事と重複するが、内政・外征ともに充実した第12王朝から第13王朝へと時代が移ると短命な王が続き、中にはアジア系の名を持つ王も含まれている。それでも第12王朝期に整備された宰相を頂点とする官僚制は機能し続け、しばらくはエジプト全土の統一を維持していた。しかしやがてヌビアがエジプトの支配から脱し、ナイルデルタに第14王朝、さらに外来民族のヒクソスによる第15王朝が成立したことで、エジプトは完全に分裂状態に陥ることになる。
 この第13王朝から第17王朝までを第2中間期と称する。年代は紀元前18世紀半ばごろから紀元前16世紀半ばごろまでとなる。

 第2中間期において印象深いのは外来民族であるヒクソスの支配、ということになるだろう。マネトンのエジプト史によればヒクソスは突然にエジプトに侵入し、征服して虐殺と略奪と破壊の限りを尽くしたとされている。しかしながらこれは、異民族支配打倒を旗印とした第17・18王朝によるプロパガンダだと考えられる。
 ヒクソスはアジアからエジプトに移住してきた遊牧民で、一つのまとまった民族や集団というわけではないようだ。おそらくはパレスティナにいた人々が、紀元前2千年紀初めにヒッタイト人やフリ人などが登場してきた民族移動の余波として、エジプトに押し出されてきたと考えられる。彼らは第2中間期のかなり前から、労働者などとしてエジプトに浸透していた。
 第12王朝の時代にエジプトとパレスティナとの交流が拡大し、召使や労働者としてパレスティナ出身の人々がナイルデルタに雇われて住み着くようになった。第13王朝期になると国力の衰退に伴ってエジプトとパレスティナの境界の警備が緩み、パレスティナからの労働者が故郷の生活様式を持ち込み、現地の文化と混交した文化が発展した。彼らはエジプトの伝統を尊重しながらも、外来の文化と民族意識を保ったまま社会の上層にも浸透し、第13王朝の衰退で各地の首長が「王」を名乗る頃にはそれらの人々の中にも自らをヒクソスと考え、エジプトの称号と併せてヒクソスの称号も用いる者があった、というシナリオが浮かび上がってくる。

 ヒクソスによる王朝である第15王朝はアヴァリスを本拠地としてナイルデルタ西部からパレスティナ南部までを領有した。異民族の王は既に第13王朝時代に存在していたが、異民族のみの王朝はエジプト史上初めてとなる。マネトンによればナイルデルタには更に第14王朝と第16王朝が存在したとされるが、その実態はよくわかっていない。第19王朝時代に成立した「トリノ王名表」には非常に多くの王の名前が挙げられており、ごく小さな領域を治め、他の勢力に従属していた領主たちも「王」を自称していたようだ。

 ヒクソスは馬、戦車、複合弓などの新しい武器・武具とそれにともなう軍事技術をエジプトにもたらした。一方でヒクソスの王たちは、エジプト文明に同化しようとしていた。王権・文化・宗教の伝統を守り、エジプトの言葉で記録を残した。
 また第15王朝は対外交易を積極的に展開し、ヌビア、クレタ、アナトリア、バグダッドなど広範囲から遺物が発見されている。またヒクソスの故地とも言えるパレスティナ南部にも大々的に進出している。これを交易のための海外拠点と考えるか、エジプトが初めてエジプトとアジアに跨る帝国を建国したと見るかは意見が分かれている。いずれにしろ中王国期にエジプト文化を取り入れたパレスティナの人々と、パレスティナの文化を持ち込んでナイルデルタに住み着いた人々の間に一定の同族意識があり、血縁の絆を頼ってエジプト・パレスティナ間を行き来していたことが想像できる。

 これに対しテーベに成立した第17王朝は、伝統的なエジプトの領域が曖昧になることを恐れ、新しい武器と戦術を取り入れるとともに異民族支配の打倒と、エジプトの再統一を掲げて第15王朝に対抗することになる。

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 ヒクソスは突然にエジプトに侵入し荒らしまわった後に、王朝を建ててエジプト人を支配したようなイメージを持っていた部分もあるのですが、実際調べてみると中国の異民族王朝の様に積極的にエジプトの文化に同化しようとしていたように思えます。またエジプトに現れたのも突然ではなく、何世代にも渡ってエジプトに浸透した結果として、地方の支配者層にもエジプト人であると同時にヒクソスであるというアイデンティティを持つ者が現れ、それが第13王朝の衰退によって王を名乗るまでになったという流れをみると、彼らはエジプト人領主としてエジプトの王に名乗りをあげたと思ってはいても、外国人としてエジプトの一部を征服したのだという意識を持っていたのかすら疑問だと思えました。
 イメージとしてはローマ帝国末期のゲルマン人たちと、似ているようにも思えます。

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