見出し画像

branch | weekly

「画面の右上に、新たなメッセージが届いていることを知らせるバナーが表示される。プレビューを見る限りでは急ぎではなさそうだけれども、通知は見る間に20、30と重なっていく。何か障害が起きているのかもしれない、と一瞬嫌な予感がしたので、システムの稼働状況を確認するコンソールを開く。いまのところ障害が起きている様子はないものの、何かトラブルがあったのかもしれない、と思いビジネスチャットアプリをメインウィンドウの前面に広げる。そこには、クラウド上のファイル共有サービスでエラーが出ておりファイルがダウンロードできない、という内容と、クラウド経由でファイルを添付したメールで、添付ファイルエラーになっているという内容が混在しており、原因はクラウドファイル共有サービスのようだ。クラウドと言ってもネットワークを介してどこかの物理サーバーにデータがあるわけで、IT業界においてもクリエイティブな表現というものがマーケティングにおいて重要だという事がよく分かる。
そもそもビジネスチャットアプリを作った人間はなぜこんなものを作ったのだろうか。常時メッセージが送れるようにするようなサービスが受け入れられているということ自体が狂気だが、メッセージというものはもっと、届くか届かないか分からないという神秘のベールを被っているべきものだろう。届いて当たり前、返事があって当たり前、などというのは神託の時代にはなかったわけだ。ボトルに詰めたメッセージが果たして誰に届くのか分からない、であったり、受け取った相手が読めるか分からないそもそも言葉が通じるか分からないというスリルがコミュニケーションの本質なのではないだろうか。
気軽に、世界中の誰と、いつでも、どこででも、というのは楽天的に過ぎるだろう。世界には繋がりたくない領域というものがあるべきで、私的な時空間というものを侵食するようなものが世界を乱している元凶なのだろう。何でも知ることができる、そう、本当に必要なもの以外は、という冗談があるように、人々はネットワークを介して何かを見たり聞いたりして知っているような気になっているだけなのだ。そこにリアルさがないとは言わない。実際に人間を苦しめる言葉や思想の多くはインターネット上にあるわけで、そこでやり取りされているのはより洗練された悪意や無垢な無知さである。

また画面上に通知が表示される。

進捗どうですか。」

世界は常に壮大なプロジェクトの壮大な計画の途上にあり、進捗を問われている。神は世界を作る時にロードマップを示し、マイルストーンを設置し、開始日を設定した。幸せに生きたい、というささやかだった願いはいつしか傲慢な欲望に取って代わられ、宿主の意識を支配する寄生虫のように本来の幸せとは何かを追求することではなく、無限にも思われる欲望の充足とさらなる渇望へと人類を駆り立てた。

みたいな現代思想批判というのは20世紀の終わり頃にはもうけっこうあったらしい。

彼女の音読を聞きながら、末端のシステム担当者というのは社会に対してネガティブな感情をいだきやすかったのだろうな、と感じた。古来より社会のインフラというのは奴隷によって維持されてきたわけで、雇用というのは奴隷の時代別の呼称の一つであろう。奴隷階級の待遇は時代によって大きく異なるが、奴隷階級は細分化し、社会の構成要因としてガッチリと組み込まれているということには違いがない。インフラというのはとにかく安定稼働、あって当たり前、というものだ。そんなインフラであるネットワークやシステムというものを情緒不安定な人間に管理させることに疑問を感じない、というのはやはり何かの感覚が麻痺していたのだろう。

世界の安定は人間の不安定さを取り除くことによって成し得ることができる、という終末思想が流行ったのが200年ほど前で、一部のテクノロジーオプティミストが描いた理想的な世界の中には、少なくとも格差社会の下層にいる人間のことは勘案されていなかったようだ。

世界の有り様は人々の小さな決断の積み重ねなわけだけれども、何が決定的な要因で今があるのか、というのをたどっていくことは困難である。それは複雑に撚り合わされた編み物のようで、どこか一箇所がほつれても全体にそれが広がっていく。ほつれ始めた世界は既に全体としては編み物の体を成しておらず、数百年という時間をかけて築かれた制度は土地に縛られた都市のような集まりを残して霧散してしまった。虫食いのように世界に取り残された都市は、そこに集う人々の、それこそ、自治という考え方によって運営されるようになった。平たく言ってしまえば、繋がりすぎて大きくなりすぎてしまったのだろう。それ自体の大きさや重みに耐えかねて自壊していく寓話の中の巨像のように、国民国家、グローバリゼーションというものは崩れ去ってしまったわけだ。

善悪や歴史というものは当事者ではないものが後で振り返り築くものである。その時、渦中にいる人間たちにはもがくことしかできないわけで、その中で少しでも進めそうな方向に踏み出した一歩がその進捗なわけで、踏み出さないものにはとやかく言われるものでもない。確実に来ると言われている天災に怯えつつ過ごすよりは、例え数年でも湾岸のタワーマンションで過ごすことによって得られる満足感を選択する、というのも必ずしも不合理ではないのかもしれない。幸福かどうかは、いつ誰が評価するかで全然違う結果になる。今となっては廃墟だが、湾岸のタワーマンション跡地には幸せの残滓のようなものがあるのだろう、今でも詣でる人は少なからずいると聞く。

死や老いというものを科学的に克服した時に、それでも生きたいと考え、世界の変わりゆく姿に自らの未来を託し何かを成し遂げようとした者たちの末裔が今の我々であり、それゆえ、残された者たちは、必然的に世界を見守りつつ、また自らの可能性を賭して開拓をするという精神を譲り受けている。安楽死という選択を与えられた時点で、人間の世界は一度終わりを迎えたと言ってもいいだろう。失う恐怖よりも、先の見えない時代にどう生きていけばいいのか、という不安が勝ったところが分岐点だったと今なら分かる。生きること、特に幸せに生きること、という使命からの解放は、過去のどんな思想的な革命よりも多くの人を救ったといえば言い過ぎだろうか。

--

キノコです。

2020年の夏も暑いですね。
先日見た何かでは、2020年の夏はこの先の100年で最も涼しかった夏の一つになるだろう、と書かれておりました。つまり、来年以降も暑いだろうということです。地球が限界を迎える前にキノコが早々に限界を迎えることは明白ですが、真剣にどうやって生きていけばいいのかを考えなければならないのではないでしょうか。温暖化というには暑すぎるし、生まれてしまった人間が変異する見込みもないのでなかなか痺れる戦いになりそうです。

ただキノコは暑いのが苦手なだけで、環境問題と言われるような課題設定には割と懐疑的です。温暖化効果ガス云々とか。プラスチックによる汚染や、ゴミ問題というのは認識はしているものの、対応の方法については今のような袋の有料化などではない方向での解決を望んでいます。

人間というのは惰性で生きるものだという話は何度もこのnoteで書いてはおりますが、新型コロナウイルスに対応した新しい生活様式も習慣として定着するにはまだまだ時間がかかるでしょうし、いったん定着してしまうとなかなか次の段階に進むのにも時間を要するようになるでしょう。半年〜1年という期間を長いと捉えるかどうかというのはその人の人生のスピード次第なのでまあ相対的なものでしょう。

問題解決の提案をする際には、解決策の中に時間軸の説明が不可欠です。現代人は時間が常に欠乏しており、最大の資源は時間であるとも言われております。いまのところ時間はお金では厳密には買えませんし、家事をアウトソースすれば云々という話はいましておりませんので。

というわけで、毎年夏になると焦燥感に駆られて転職や転居をしたくなるのですが、今年は運悪く夏の始めに転居をしたせいかペースがすっかり狂ってしまい、この一月というもの、生活環境の変化によって調子が狂っているのか、夏の暑さで調子が狂っているのか、俄に忙しくなった仕事のせいなのか分からず、狂気の中で過ごしてきてしまいました。

まだ完全に復調というわけではないにしても、そして実際には全く休んでいないにも関わらず、夏休みと言われるような期間は過ぎてしまい、こうしてまたnoteを更新することができているのはひとえにクーラーという科学の力によってかろうじて夏を乗り切れそうな目処があるからです。人生において大事なのは、お金、時間、エアコン、そして運と縁とタイミングです。

では、本日の話は進捗の話です。

--

ここから先は

1,606字

¥ 300

期間限定!PayPayで支払うと抽選でお得

この記事が参加している募集

九段下・Biblioteque de KINOKOはみなさんのご支援で成り立っているわけではなく、私たちの血のにじむような労働によってその費用がまかなわれています。サポートをよろしくお願いいたします。